相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『宝の山に入りて 手を空しくして 帰ることなかれ』(2022年7月 1日)

 去る6月20日晴天の中、永代経法要を滞りなく勤めることができました。
ご参詣くださった方々はその後お変わりありませんでしょうか。またすぐに盂蘭盆会法要がございます。皆様のご参詣心よりお待ち申し上げます。

 さて、仏教には正像末(しょうぞうまつ)の三時という教説がございます。仏教をお説きくださった釈尊が御入滅されたのち1000年の間を正法(しょうぼう)といい(年数に関しては様々な考え方があります。)釈尊の説かれた正しい教えが正しいままに存在し、その教えに従って正しく修行を実践する人もたくさんいて、悟りを得る人も存在する時期だと言われています。
その正法の時期を過ぎると1000年間の像法(ぞうぼう)に入るといわれています。「像」という漢字は「似」と同義で正法に似た時期だということです。この時期は釈尊の説かれた教えと修行する者は存在するものの修行者の機根が衰えているので悟りを得る人が存在しなくなる時期です。
そして釈尊入滅後1500年が過ぎたころからは末法(まっぽう)といい、ただ釈尊の教えのみが残り、法を聴く者も、修行の実践をする者もいなくなり仏教が衰退する時期のことです。日本では1052年から末法が始まったとされています。

 この末法思想については平安時代に活躍なされた伝教大師最澄さんも末法思想について説かれておられます。その後鎌倉時代に入りますと度重なる戦や飢饉などにより社会の混乱が極まりそのことが後押しをし、ますます日本全土に末法感が広がっていきました。その時代を目の当たりにしていた親鸞聖人をはじめとした鎌倉仏教の祖師方により、いわゆる鎌倉仏教が広まりをみせていくことになります。

 この正像末の三時において重要なことはどの時代においても釈尊の説かれた教えは残っていると言うことでありましょう。人や世の中は衰えていく中にあっても釈尊のお説きくだされたみ教えは末法の世と言われる今日にあっても正しく存在するのです。この末法の世を作る最大の問題は我々人間にあると言えるでしょう。親鸞聖人は「凡夫というは無明煩悩我らが身にみちみちて、欲も多く怒り腹立ちそねみねたむ心おおく、暇なくして臨終の一念に到るまでとどまらず、消えず、絶えず。」とお示しくださっておられます。まさに私の本質を見抜いてくださっておられます。この私が末法を作っているのです。

 そして蓮如上人は御文の中で「末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。」と仰いました。そして「末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。」と続けられます。

 今回、永代経を厳修させていただいたことにより、今までは釈尊の説かれた教え、親鸞聖人がお伝えくだされた阿弥陀如来の本願、そして釈尊が説かれた膨大な経典の中から親鸞聖人が所依の経典(各宗派が拠り所としているお経)とされた仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経を我々で途絶えさせず、子々孫々永代に亘って伝えていくということが大事だと思っていましたが、一番大切なことは末法と言われるこの時にあっても阿弥陀如来の本願、釈尊のみ教え、親鸞聖人をはじめとする善知識の方々の教えや願いが、私に届いているということ、そしてそのことに気付かないことを知ることだと気がつきました。

 私たちは本当に大事なものを見失い、目の前の小さなことに振り回され、欲に満ち、他人を誹謗中傷し、時に暴力をふるい、他人と比べては羨んだり妬んだり、そしてそのことに気付かず、気付いたとしても恥ずかしいとも思わないのではないでしょうか。そのような暮らしに喜びはあるのでしょうか。一時の快楽はあっても悩み苦しみに覆われた人生ではないでしょうか。

 今月の掲示板には浄土真宗七高僧の第六祖、日本における最初の阿弥陀如来の本願を正しくお伝えくだされた天台宗の高僧であられる恵心僧都源信和尚(えしんそうずげんしんかしよう)の御著書「往生要集」の中から「宝の山に入りて、手を空しくして 帰ることなかれ」をいただきました。宝の山とは「仏の教え、仏の願い、仏法」のことでありますが、もうひとつ「人として生まれることができたまさに今この時」ということでもありましょう。人として生まれ、仏様のみ教えを聞かせていただく機会もあるのにそのことに気付かず空しい人生を送っている場合ではない。阿弥陀如来の本願をいただき、晴れ晴れとした、何事も恐れることのない大きな安心の人生を歩んで欲しいとのお言葉でありましょう。仏様の願いは永代に亘って私たちに届いております。有難いことであります。南無阿弥陀佛

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