相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『己に打ち克つ者こそ 真の勝者である』(2022年6月 1日)

 あれこれと、失敗した残念なことをしたと思うことはありますが、今、残念だったと思うのは、今年の大河ドラマを観ていないと言うことです。今年は「鎌倉殿の13人」という鎌倉時代のお話しだと知り、親鸞聖人の生きられた鎌倉時代のことも知りたかったですし、源平の合戦で坂東武者として戦働きをし、後に法然上人の元で出家なさった熊谷直実という人もドラマの中に出てくるかもしれないと思うと残念なのです。

 この熊谷直実という方は、のちに法力房蓮生(ほうりきぼうれんしょう)という僧名で御活躍なさる方です。幼いころに父が亡くしたことで母方の伯父である久下直光の元で育てられます。平家方として生まれましたが、1156年に起きた保元の乱では源氏方として働きます。その後、伯父の久下直光の名代として京に上がったところ、久下家の家来という扱いを受けたことに腹を立て平家方に寝返ります。1180年(親鸞聖人8才)に起きた石橋山の戦いでは平家方として戦に出ましたが、その後は源氏方の配下となり源平の合戦に赴きます。そして直実の人生を左右する最大の出来事となる、鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおと)としで有名な1184年の一ノ谷の戦いが起こります。そこで平家の笛の名手であり17才の少年、平敦盛との一騎打ちとなり、組み伏せて首を討とうとしたところ、自分の息子と同じほどの少年だと知り逃がそうとするのですが、自分が逃がしたところで後ろから加勢に来る源氏の誰かに討ち取られるであろう。それならば私が首を討ち生涯にわたって供養して差し上げようと泣く泣く討ち取ってしまうのです。その後、伯父である久下家との領地争いで裁判があり、口下手で上手く質疑応答ができなかったことで嫌気のさした直実は逐電し京で噂になっていた法然上人の元を尋ねて行くことになるのです。

 法然上人の吉水の草庵を尋ねた直実は、上人を待っている間におもむろに持っていた刀を抜き、見つめ始めました。まさか上人を殺害せんとやってきたのかとおびえた門人が問いますと「多くの人を討ち取ってきた悪業は計り知れない。もし法然上人が腹を切って詫びなければ助からないと申されるならば、すぐにそうするつもりなのです。」と答えたそうです。その後法然上人に自分の半生を語り、自分の後生はどうなるのでしょうか。助かる道はあるのでしょうかと尋ねました。

 すると法然上人は「私たち人間は、生まれてから死ぬまで、殺生をせずには生きられない深い業を持っています。そんな悪ばかり造っている私たちは、間違いなく地獄に堕ちることでしょう。ところが、そんな悪しか造れない悪人を、信心一つで必ず救うと誓われたのが阿弥陀如来の本願です。阿弥陀如来の本願を信じ、南無阿弥陀仏のお念仏を称える身になれば、どんな人でも阿弥陀如来のお救いをいただいて極楽浄土に往生できるのです。」とお答えになられました。このお言葉を聞いた直実は号泣しそのまま法然上人の元で出家をされ、必ず救われる喜びに包まれながらお念仏の大道を歩むこととなるのです。

 今月の掲示板も法句経からいただきました。「戦場において百万人に勝つとしても、唯だ一つの自己に克つ者こそ最上の勝利者である。自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。」(岩波文庫 ブッダ真理のことば 感興のことば 中村元訳)ここで言われている「自己に克つ者」とは世の中の様々なことにとらわれることなく本当の自分に気付く、気付かされると言うことでありましょう。私たちは目先の損得や、様々な欲望に振り回されて生きています。でもそれは本当に自分自身が心底求めていることなのでしょうか。

 直実が戦に出て大勢の相手を打ち倒してきたのは憎いからではありません。戦によって武勲を立てて領地を得て出世していくことは武士のならいでありましょう。そこになんの疑問も覚えずただ武士として損得勘定に振り回されてあっちこっちと流れに身をゆだね生きていたのでしょう。しかし、自分の息子と同じ年齢の若武者を討ち取ってしまったことで直実の心にそれまでの半生がすべて疑問に思えたのでしょう。

 親鸞聖人も「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄)とお示しくださいます。生まれや立場や人とのつながりの中で私たちは思いもよらなかったことや、自分ではどうにも止められないことをしてしまうものです。自分の気持ちとは裏腹な行動を取っていく中で、なにが本当に大事なことなのかさえ分からなくなっていくこともあるでしょう。そして自分のしたことで一生悩み悔やみ続けることもあるかもしれません。そんな私たちを、そんな私たちだからこそ阿弥陀如来はすくわずにはおられないとおっしゃるのです。誓ってくださるのです。

 そして聖人はまた、高僧和讃で「真宗念仏ききえつつ 一念無疑なるをこそ希有最勝人とほめ 正念をうとはさだめたれ」とお示しです。これも法句経のお言葉と同じ意味であります。様々な縁の中で生まれる独りよがりで損得勘定ばかりに心を奪われ、それが本当の幸せなのかも分からないで日々を過ごしている人は大勢いますが、本当に大事なことは阿弥陀如来の本願を聴かせていただく中に本当の自分というものに気付かされ、喜びに満ちた大きなる安心の人生を歩むことしかないのだと思うのです。失敗した。残念な人生だったなどと言うことにならないように、どうか自分を知り、自分に気付かされ、自分をハッキリさせ打ち克てた人生を歩みたいものです。合掌

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