相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『白髪頭であるというだけで長老ではない ただ年を重ねた老いぼれという」(2022年3月 1日)

 京都にある龍谷大学の真宗学科で4年間学ばせていただいた息子が、この春卒業ということになりました。春からは御本山東本願寺に奉職させていただけるお許しを、御法主台下から頂戴し晴れて讃衆さんの仲間入りということになりそうです。

 そこで少し早いとは思いましたが3月はお彼岸があり時間の都合が付けづらくもありますので2月中旬に家族で京都に行き部屋の片付けや引っ越し、不動産屋さんへの引き渡しをして参りました。

 この4年間、後半の2年間は思うようには行きませんでしたが息子のお陰で京都観光を楽しめましたし、普段なかなか行けない衣屋さんなどにも顔を出せて私としては息子に感謝な4年間でした。引っ越し作業もすべて終わり部屋を引き渡しますとなんだかとても寂しい気持ちになりました。息子にとってはたくさんの思い出の詰まった部屋でしょうからとても寂しそうな表情をしておりました。
しかし、これから始まる御本山での学び多き生活が待っております。さらに大きな成長をしてほしいものだと感じ、偉そうに父親ぶって「4年間御苦労様でした。これからは御本山でたくさん学び、様々なことを吸収し生涯の仲間を作りなさい。」などと言っておりました。

 その晩、京都に行くと必ず行くレストランがあるのですが、そこで食事を済ませ歩いてホテルに戻りました。ホテルまでの道すがら息子が私に話しかけてきました。「今、お父さんがもし論文を書くとしたら、どんなテーマで書くの?」
ハッとしました。なにも思い浮かばないのです。

 毎週の日曜礼拝では必ず新しい話しをさせていただいておりますので、あちこちにアンテナを張り巡らせているつもりです。本も少々ではありますが読むようにしておりますし、日々のお勤めでふと感じたことなども必ず調べるようにしております。しかしこのことはよくよく考えますと日曜礼拝で新しい話しをするための作業でしかなかったのです。月曜日から木曜日までは話すテーマを考え、金曜日に話す詳細や順序立てを考え、土曜日にまとめ、日曜日に話すというの繰り返しのための作業でしかなかったのだと恥ずかしくなりました。

 反省しながらの帰路でふと今月の掲示板に書かせていただきました法句経の言葉を思い出しました。

『頭髪が白くなったからとて長老なのではない。
 ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
 誠あり、徳あり、慈しみがあって、そこなわず、
 つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、
 気をつけている人こそ長老と呼ばれる。』
      (岩波文庫 「ブッダ 真理のことば 感興のことば」中村元訳)

 まさに今の私は、ただ空しく老いぼれていくだけの人間だと恥ずかしい思いでありました。いくら偉そうに父親ぶって、「これからも励め!」などと言っても息子の目には、ただ白髪頭の老いぼれに見えているのかもしれないと思うと、やりきれない思いです。

 昔から目上の人、高齢者の方々は「最近の若者はなっていない!」というものです。しかしニュースなどを観ていてもとんでもない高齢者が多いのもまた事実です。なんでも自分が正しいと信じ、自分は間違うことなどなく、世の中のためになっていると思っている人も自分を含め多いように感じます。
若者はというと確かに今さえ良ければいいという考えの人も目立ちはしますが、逆にこんな時代ですからしっかりとした考えを持ち、目標を持って歩んでいる若者もとても多いように見受けられます。

 蓮如上人の御文にも
「ただいたずらに明かし、いたずらに暮らし年月をおくるばかりなり。これまことになげきてもなおかなしむべし。」
とお示しくださっておられます。

 皆さんはなにか目標を持って溌剌と、そして慈しみの心の中に過ごされておられますか?合掌

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