情けないと申しますか、申し訳ないと申しますか、御本山東本願寺にて最短でも5年は学ぶ時間をあげたかった息子を、私の状態がコロナ罹患により予想以上にすすんでしまい、半分の2年半で本弘寺に戻ってきてもらうこととなりました。
それに伴い、東本願寺の御住職であり、親鸞聖人の御血筋であられる御法主台下においとまの御挨拶に上山して参りました。
10数年前は何度かお酒の場にご一緒させて頂いたものですが、久しぶりに御法主台下とお話しできる機会をいただけました。
最初に「高島君が最近見えないから心配していた」とおっしゃってくださいました。そして私の病状についての話になり、あれこれ持論を挟まれるのではなくずっと私の話に耳を傾けてくださいました。久しぶりにお目にかかれることとなり、緊張もしておりましたし、お話しさせていただきたいことも後から後から湧いてきまして、分かりやすく順序立ててご説明できなかったのですが、それでもじっと聞いてくださいました。
一通り話し尽くしましたところ、「高島君はすべて阿弥陀様にお任せだと覚悟が決まったようだけど、それだけでは足りないよ。病は気からともいうように頑張らないとね。」「大病院のお医者さんは、言葉が冷たいから傷つくことが多いけど、君とは同じ世代だし人ごとには思えないから、少しでも長生きできることを願っているよ。まだ若いのだからお互い頑張りましょう。」そのようなことをお話しくださいました。
御法主台下は本当にお優しいのです。本堂で同じお勤めをさせていただけているだけで元気が湧きますし、とても安らいだ気持ちにさせていただけるのです。
今月の掲示板には清沢満之というお方のお言葉を引用させていただきました。天命に安んじてとは、阿弥陀如来のあなたを必ず救いとる。決して見捨てはしないという他力を信じ、そこに安らかな生き方を見いだして安心して日々を過ごしていくということでありましょう。ただそこで終わるのではなく大事なことは、天命に安んじられたならば、ただただ阿弥陀様を他力を信じ、安らかな安心の中で自分にできることを今日一日励むことが大事です。ということでありましょう。
安心してホッとしてしまいますとそこで歩みが止まってしまうこともあるでしょう。これはもしかすると諦めていると同義かもしれません。安心して諦めて日々をだらだら過ごすのではなく、大きな安心に包まれたからこそ、思いきり人生を歩んでいきなさいとの阿弥陀如来の願いをいただき、前に進んでいくことが大事なのであります。
私どもが帰る際、なんとも驚きましたが、ご夫婦そろってお見送りくださるために玄関に立ってお待ちくださっておられました。しかし私は何をするにも時間がかかりますから、またお会いできることはかなわないことでありましょうが、私は時間がかかります故どうぞお戻りくださいませとお別れさせていただきました。
私の人生において、阿弥陀如来の本願に出会えたことは大きな出来事でありましたが、祖父や父が大谷派と決別をし東本願寺派の一末寺となれ、そして本当に不思議なご縁で御法主台下と巡り会えたことは私にとって最大の喜びでした。
実は御本山から帰ってきてから1週間、頑張る気持ちとは裏腹に体調が優れずほとんどの時間を寝て過ごしておりました。今日もまだ調子は悪いのですが、自分のできることを精一杯励みながら日々歩んでいこうとこの原稿を書いてみました。少しずつ少しずつできることをできる限り励んで参る所存です。皆様にはご迷惑をおかけすることでありましょうが、何卒お赦しくださいませ。合掌