相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『なんのために生まれて なにをして生きるのか』(2025年6月 1日)

 朝の連続ドラマ小説を何十年も観ています。面白かろうが、面白くなかろうが、癖で観ています。ただ今期の「あんぱん」は今のところ心惹かれており、入院中も欠かさず観ていました。

 日本人の子供ならほとんどの子が観ているであろう「アンパンマン」の作者ご夫婦のお話です。今月の言葉は、作者やなせたかしさんの育ての親である伯父さんのお言葉です。アニメの主題歌でも使われているフレーズですから皆さんも耳にしたことはあるのではないでしょうか。伯父さんはことあるごとに深い言葉を遺してくださいます。

 私は入院中にこの台詞を耳にしまして、あれこれ考えました。私はなんのために生まれ、なにをして生き、なにを遺していけるのだろうか。そのようなことを1日30分の点滴以外とくになにもしない入院生活でしたから、あんがい長い時間考えていたように思います。しかし今となるとなにを考えていたのかほとんど忘れてしまっていますが・・・

 ありきたりといいましょうか、パッと浮かぶのは、本弘寺を嗣ぎ、跡取りを育て、次の住職やお檀家さんに本弘寺を繋いでいく。ということでしょうか。この考えにはまりますと、物心ついてからずっと「本弘寺の跡取り」だと両親は当然ながら、お檀家さんも、友人も学校の先生にまでも、そういわれ続けて育ちましたから、他の道を考えたり、僧侶となり人生を歩んでいくことも深く考えずに、そんなものなのだろうと生きてきたように思います。結婚相手を探していたときも、本弘寺の嫁としてどうなのかということが最大の問題でした。このことに関してはずっとそう考えていたにもかかわらず、坊守と出会った瞬間に一目惚れをし、単純に結婚したいと思ったのですが、今考えてもそのとき以外は、今に至る今日までも私の根幹には本弘寺のためにということが最大のテーマになっているように思います。
 こんなことを書きますと、お檀家さんには褒められるような気もいたしますが、親鸞聖人のお言葉「世の中安穏なれ、仏法弘まれ」を何度も掲示板に書かせていただいている者にしては、ちっぽけなことを言っているように感じました。

 それでは親鸞聖人はどうお答えくださっておられるのか考えてみたいと思います。愚禿鈔(ぐとくしょう)という御著書で本文は難しいので簡単に訳して書きますが「自分はまさに自分で作った罪深い業により生死を繰り返し、はるか過去から今現在に至るまでただ苦しみの中でもがき続けている凡夫だと深く信じ、また阿弥陀如来の四十八願は必ずこの私を救い取ってくださる。疑う余地もなくその本願を信じることで必ず極楽浄土に往生させていただけるのだと深く信じること。この2つの深信以外救われる道はない。この深信は私の努力により開ける信心ではなく、阿弥陀様のおはからいによる他力至極の金剛心であり、一乗無上の真実信海である。とお示しくださいました。訳しても難しいですね。もっともっと簡単に表現してしまえば、せっかく人として生まれてきたにもかかわらず、阿弥陀様の本願を聴こうともせず、ただ一日一日を自分の好き勝手に悪どいこと罪深いことを繰り返す私が救われるには、阿弥陀様が私のために開いてくださったお念仏の道を歩むこと以外にはないのだということであります。

 ですから私たちが生まれてきた意味は「阿弥陀様の本願に出遇うため」この一点にあるといっていいでしょう。そして出遭えたならば、ひたすらお念仏の道を歩ませていただくことが大事なのです。お念仏の道を「無碍の一道」と表現します。なにものにも妨げられることのないただひとつの道ということです。いくつもある中の一本ではありません。自分で切り開いていく道でもありません。私たちには想像もつかない長い長い時間、私たちの本質を見極め、そんな私たちを救う手立てをたくさんの仏様の誓いや世界を研究し尽くし、そしてなにものにも妨げられないひとつの道、無碍の一道、「念仏の道」を誓われ、お浄土を建立してくださった阿弥陀様の御本願をお一人お一人が深く信じてください。

 今年亡くなった父の希望でもあった御本尊の荘厳も新しくなり、御内陣の床も総ケヤキ材で綺麗に張り替えることもかないました。今月6月20日午後一時、本堂にどうか皆様お集まりください。生まれてきた意味、そしてなにをして生きていくのかが説かれているといっても良いでしょう。仏説阿弥陀経を永代に渡ってけっして滅びさせることなく、皆で読経し、意味を聞かせていただく大切な法要「永代経」をお勤めさせていただきます。今年も御本山からお坊さん方に来ていただき、親戚僧侶総出で盛大にお勤めさせていただきます。合掌 

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