煩悩障眼雖不見(ぼんのうしようげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじようしようが)
このお言葉は親鸞聖人のご著書「顕浄土真実教行証文類(けんじようどしんじつきようぎようしようもんるい)」の中に遺された「正信念仏偈(しようしんねんぶつげ)」いわゆる正信偈(しようしんげ)の一節です。
あなたを救わずにはおられない。必ず救いとって捨てることはしない。今を精一杯生きなさいとの阿弥陀如来様の大悲の本願に照らされているにもかかわらず、身勝手な煩悩に眼を塞がれて、その光明を見ることがかなわない。ということであります。
思い返しますとここ数年、ホームページの法話で、すべて阿弥陀様にお任せという覚悟が定まった。名残惜しかろうと、そう遠くない未来この病によって死ぬことになるでしょう。しかし縁のあった方々が往かれたお浄土に往生させていただけることが決まっているのだから何も恐れることはない。あとは生かされている今この一時一時を精一杯励んでいこう。というようなことを書いてきました。しかしよくよく考えてみますと、精一杯生きていくというのは格好付けで、死ぬことばかり考えていたというのが本音のようです。
このことに気がつきましたのは、本当にここ最近のことなのです。といいますのは、神奈川県立循環器呼吸器病センターの先生は、診ていただく度に、どうすれば私が日々楽に幸せに生きていけるだろうかということを考え、治療方法を考え、ご提案くださるのです。それに比べますと、けっして批判するような気持ちはありませんが、北里大学病院の先生方は、在宅酸素療法を親身になって「あなたを救いたい」と勧めてくださった先生以外は、どなたも不治の病に冒されている私が最期をどう迎えるかという話しを根幹に置いて毎月お話しくださっておられたというように思えたのです。北里大学病院には長く通院しておりますし、私自身も間質性肺炎イコール死ぬ病というように考えておりますから、いつも死ぬことばかり考えていたのです。
父の葬儀の準備中に罹患してしまったコロナウイルスにより、肺の状況はかなり悪化したようで、在宅酸素療法の酸素量も増えましたし、少し動くだけで酸素飽和度も普通の人なら気絶してますよと言われますが、あっという間に70程度まで落ち込みます。そんな日々を過ごしていますと、夜寝る頃になんとも表現できない苦しさと体調の変化に襲われ「あぁ今夜が最期になるかもしれないな。明日の朝は妻を驚かせるかもしれないな。」という感覚に陥ることがあります。そうなりますといつも思うのは、「今仮に死んだとしても、妻や息子たちは大変な思いをするだろうけどなんとかなるだろう。短いような気もするけどそこそこ幸せな人生だったな。」ということです。また、夜中に息苦しさで目が覚めることも多いのですが、そんなときは暗い部屋で一人ベッドに腰掛け、やはり死ということを考えています。このことは実は覚悟しているというよりも諦めているのだとうっすらと気づいておりました。
ですが、前回県立病院の先生が、少しでも咳を抑え、痛みを減らして楽に生きられたら良いと医療用麻薬を処方してくださり、4月末から決まった北里大学病院への治療のための入院も、わざわざお手紙を書いてご提案くださったりと、どうやって生きていけば良いのか考えてくださるそのお姿を夜中にふと思い出したとき、本当に初めてなのですが「生きたいな。」と口からこぼれたのです。
病によって死ぬという現実を突きつけられ、恐怖し、後々のことを考え申し訳なく思い、それらすべてが煩悩となり阿弥陀様の本願の私にとって一見都合の良さそうな「命尽きれば必ずお浄土に救っていただける」ということばかりに目が向き、嬉しいときも悲しいときもいつもそばにいて、全力で私という人間を肯定してくださり励ましてくださることは忘れて目を瞑っているのです。
親鸞聖人のお言葉として歎異抄に「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」と示されております。名残惜しいということは、普通ならこれも煩悩かもしれませんが、親鸞聖人におかれては、阿弥陀様の本願に照らされておられることを疑いなく実感なさっておられるからこそ出てくる力強いお言葉でありましょう。それでも娑婆の縁が尽きて最期の時を迎えたのならば、それも阿弥陀様にお任せしてお浄土に迎え入れていただきます。とのすべてを阿弥陀様にお任せのお姿です。私のように偏ったいただき方ではないのですね。
よく仏教は暗いというご意見を耳にします。また死んで救われても意味がない。今このときに救ってほしいということも耳にします。しかし阿弥陀様のご本願は今このときも一生懸命私たちのことを見守ってくださっておられるのです。この光明に気がつけないのは私たちの煩悩のなせる業です。この光明に気がつけるためにはひたすら仏法聴聞させていただくことでありましょう。照らされている我が身に気がつきますとそこには明るく幸せな日々が開けてくるのでありましょう日曜礼拝や定例法話にどうか参加してみてください。一緒に阿弥陀様の願いを聞かせていただきましょう。合掌