相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『願われていた 案じられていた』(2024年8月 1日)

 恐ろしく時の経つのが早いと感じていますが、もうお盆の季節になりました。お盆になりますと、お墓参りをなさり、故人の好きだったお食事などをお供えしたりしながらお過ごしになる方が多いことと思います。

 毎年尋ねられるのですが、スーパーマーケットなどで見かけるお盆セットや、キュウリの馬、ナスの牛、提灯に見立てたほおずき、送り火迎え火は浄土真宗ではいたしません。とはいえ、やはりお盆のお参りにご自宅に寄せていただきますと、迎え火を焚いたのであろう痕跡を玄関先で見かけることはよくありますし、お盆セットでお飾りをなさっておられるご家庭もよくいらっしゃいます。要らないのですよとお話をさせていただいても、また翌る年も同じようにされておられ「やっぱりこうしないとお盆って気がしなくてね」なんて言われます。実際お気持ちはよく理解できます。

 さて、今年は私にとっても正月5日に亡くなった母の初盆にあたります。先日息子達に助けてもらいながら、本堂のお盆の荘厳をいたしました。皆さんのご家庭で見かけるクルクル回るきれいな提灯はお寺にはないのですが、浄土真宗では切子灯籠というものをお飾りいたします。一般家庭用の小さなものも御仏具屋さんで扱っていますから正式なお飾りをなさりたい方はお求めになられると良いでしょう。それはさておきまして、やはりお盆をお迎えするお飾りがなされますと、普段とはまた違う独特な感情に包まれます。日本人特有のお盆の季節に亡き人を偲び、案じ、心静かに手を合わせるという良き習慣から来るものだと思っております。

 母が亡くなって早半年、一緒に過ごした頃を思い出し楽しい気分になったり、寂しい気持ちになったりもしますし、阿弥陀如来のお浄土で仏様になられた母が日々どのようなことをなさっておられるのだろうかと身を案じてみたり、とても身勝手なことを願ってみたりもいたします。
 そんな中、先日の日曜礼拝の法話を息子にしてもらうことにいたしました。そのお話の中で切子灯籠に少し触れ、灯籠の独特な形状は諸説ありますが、逆さづりにされ苦しんでいるお姿を表しているといわれます。と話していました。
お盆という言葉はインドのサンスクリット語でウランバナという言葉が語源で意味は逆さ吊りと言うことです。それが中国で盂蘭盆(うらぼん)と漢字が当てられ、日本では略してお盆と言われる行事になったのです。

 その話しを聴いていてハッとさせられました。母が逆さ吊りの苦しみを味わっておられるのは、まさにこの私のせいなのです。阿弥陀如来の本願を忘れて自分勝手にしたい放題の私を見るにつれ、たくさんの方々に迷惑をかけていることを忘れて傍若無人な振る舞いをしている私を見るにつれ、母の優しきお心は逆さ吊りの苦しみを感じ、極楽浄土からいつでも私に対して、如来の本願を忘れず凡夫の自分をしっかり見つめてお念仏の大道を歩んでくださいと願ってくださっておられるのでしょう。自分ではなにも出来ないのに傍若無人な態度の私に、誰からも好かれるように和顔愛語の毎日を過ごしてくださいと案じてくださっておられるのでしょう。

 お元気だった頃もずいぶんと迷惑をかけ、眠れない夜を何夜も過ごさせてしまったでしょう。その母が亡くなられ仏様となられた今も私を案じ願ってくださっておられるのです。なんとも申し訳なく有り難いことであります。

 私はどこまで行っても凡夫ですから、何を考えるにしても、何をするにしてもいつでも自分が中心で、私が相手に対して、亡くなられた方に対しても、なにかをしてあげている気になってしまいます。なにかを願ってあげているように思い、案じているように思っています。そうではありませんでした。願われているのは私でした。案じられているのは私でした。

 お盆がまいります。先に往かれた大事な方の声を聴いてください。皆さんを案じ願ってくださっておられるお声をどうか聴いてください。8月16日午後1時より本堂にて盂蘭盆会法要を勤修いたします。皆様お誘い合わせの上どうかお参りください。

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