相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし』(2024年4月 1日)

 お彼岸中のある日、何気なくテレビをつけてみると、え?フェイクニュース?というようなちょっと信じがたいニュースが報道されていました。私は野球好きではないので、とくに野球の試合を観ることはありません。ですからあえて大谷選手の試合を注視して観るなんてこともありませが、大谷選手のことはテレビ各局が、頻繁に彼の動向を報道していますし、世界中の人々が彼の野球プレイは当然ながら野球以外の一挙手一投足さえも褒め称えていまるほどの素晴らしい人物のようです。移籍したということや、その提示された年俸なども皆を驚かせ、突然の結構発表にも皆大興奮のようであり、大谷選手を観ない日はないといえるでしょう。

 そしてそこで必ずといってよいほど目にするのが、いつも大谷選手の横にいる水原一平通訳さんです。なんでも大谷選手が日本のチームに在籍している頃、そのチームの通訳を務めていたそうで、大谷選手は水原通訳に「アメリカに行くことになったら一緒に来てね。」と伝えるほど、信頼に値する人だったそうです。

 実際、大谷選手が渡米してからというもの、通訳の枠を超えて、朝から晩まで生活全般のお世話をしていたようですし、大谷選手は水原通訳に全幅の信頼を置いていたように見受けられました。水原通訳も大谷選手が野球に没頭できるように細かなことも大変配慮されておられるように感じ関心していました。

 そんな彼が、報道は一転二転しているので確かなことはまだ分かりませんが、ギャンブル依存症で大谷選手の銀行口座から約7億円ものお金を違法賭博業者に送金していたというのです。最初は大谷選手が水原通訳を助けるために送金してくれたのだといういうような話しでしたが、大谷選手の会見によりますと水原通訳に盗まれたといっておられました。真実は今後分かっていくのでしょうが、いずれにしても大谷選手はじめ、奥さんにも多大な迷惑をかけてしまったのは間違いないことでしょう。

 ただ少し不思議というか興味深いと思うことがあります。水原通訳は異例ともいえるらしいのですが、アメリカ大リーグの野球カードに彼のカードが数種類入っているのだそうです。普通は野球選手だけのカードですが、彼はいつも大谷選手の横で朗らかに振る舞い、野球好きのアメリカの人たちが大谷選手をモニター越しに観ない日がないように、水原通訳のことも毎日観かけ、好感を持っていたのでしょう。それは日本でも同じなのか、彼が大谷選手をだまし、お金を盗んだという報道を見聞きしても、最近の日本人にありがちな誹謗中傷がそれほど目立っていないように思います。それだけ水原通訳は誰からも好かれるような人物だったといえるのかもしれません。

 一部の報道では被害に遭った大谷選手を誹謗中傷するような事態も起こっていると聞きました。その件に関して日本のお笑い芸人さんが「被害者を叩くようなことはもうやめよう。」というような発言をなさったそうでそれに賛同する方も多いそうです。その通りだと思っていた矢先、元ジャニーズ性被害者で、大勢の心ない誹謗中傷に耐えられず自殺をされてしまわれた方に対する誹謗中傷の書き込みが自殺以前より増えていると聞きました。どのような精神構造なのかと驚きます。

 犯罪を犯す人、犯罪に巻き込まれる人、誹謗中傷される人、誹謗中傷する人、いろいろな立場があるものだな。ギャンブル依存症というけれどなぜ水原通訳は依存症になってしまったのだろう。などと考えておりましたら親鸞聖人のお言葉

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄十三章)

が思い起こされました。水原通訳一人の問題ではないのです。縁によってはどんなことでもしてしまう。それが私たちの有様なのです。私も縁がもよおせば何をしでかすか分からないのです。私は善人だと思っていますから人を殺すようなことはしないと考えるまでもなく信じていますし、盗んだりだまし取ったり犯罪を犯すようなことはないと思い込んでいます。ですが想像を遙かに超えた状況に置かれたときも、同じでいられるでしょうか。人からものを盗んだり、その課程で殺めたりなどということもあり得るのです。逆に思いもよらないことで人を喜ばせることができたなら嬉しいです。そんな縁がもよおしてくれたらよいのですが・・・

 今回の件は全貌が見えないということや、水原通訳の人柄も関係しているのかもしれませんが、大声を上げて騒いでいる人は少ないように見受けられます。しかし昨今の日本は炎上や論破などという言葉が当たり前に使われるように、なにかした人、何か発言した人に対して、自分を省みることなく自分は正しいと思い込み、相手が一方的におかしいと叩くことが流行病のように蔓延しています。依存症はギャンブル以外にも実にたくさんあります。アルコールや薬物もそうですし、買い物やネット、窃盗や性行為など実に様々です。これらの根底には執着というものがあるように思います。一度覚えた興奮や安らぎが忘れられずに執着していくのでしょう。なにかに執着することも恐ろしい結果をもたらすことが多いでしょう。私たちが今後そのようなものに触れないとは言い切れません。

 これらのことは、他人事ごとではないのです。聖人のお言葉を思い出し、自分を省みることを習慣にし、他人のしたことにいちいち目くじらを立てず、思いやりと共感の心を持ちながら生活したいものです。

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