相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『仏恩ふかくおもいつつ  つねに弥陀を念ずべし』(2024年1月 1日)

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

仏教をお開きくださった釈尊は「人生は苦」だとお説きくださいました。
生・老・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとつく)・五蘊盛苦(ごうんじようく)と説かれる四苦八苦は皆さんも耳にしたことがおありではないでしょうか。

 人は生まれる環境も条件も選ぶことなくこの世に生を受けます。あんな家に生まれたかった。あの人たちのような両親が理想だ。もっと頭が良く生まれていれば。顔が良く生まれたかった。などなど大きな問題から小さな問題について悩んだり苦しんだりするのが人間の有様です。

 年は取りたくないものだと誰もが思うのではないでしょうか。出来ることがだんだん出来なくなり、出来たとしても時間がかかるようになります。身体の節々に痛みが出てきたりもするでしょう。老いるということも苦しみの1つでありますね。

 そして老いた人たちはよく「健康が一番だ」と仰います。お金も家族も大事だけれど、それもこれも自分の健康あってのことだよ。などというような言葉を耳にすることは多いのではないでしょうか。

 また誰もが生を受けたからにはいつか必ず死がやってくることは理解しております。白骨の御文で説かれているように、朝元気だった人が夜には戻らぬ人となってしまった。ということも実は珍しことではないのです。この年末年始も楽しみにしていた家族旅行に出かけていって亡くなってしまわれたというニュースを目にします。今朝、車のラジオを聞いていましたらとある投稿に唸りました。
インターネットの検索サイトで「死」という言葉を検索したら「どこまで行っても他人事」と書かれていたそうです。なんとも言い得て妙な答えです。身内や親しい人が闘病のすえ亡くなっていかれても、ある日突然亡くなってしまわれても、驚くだけで、自分のこととは受け入れがたいのが我々です。

 愛別離苦とは、大切な人や大好きな人との別れも、いつかは必ずおとずれます。怨憎会苦は逆に、憎らしい嫌いな人とも会わなくてはならないときがあり、一緒に生活をしたり仕事をしたりしなくてはならないこともあるということです。
求不得苦は欲しいものや事柄が思うように手に入らないことです。
五蘊盛苦とは生きているだけでも心や身体から盛んに煩悩が発生するが、それが思い通りにならないことから生まれてくる苦しみです。

 この8項目は私たちの身に常に存在し、避けて通ることの出来ない根源的な苦しみだとお説きくださいました。たまに「いやーあのときは四苦八苦したよ!」という言葉を耳にすることがありますが、「あのとき」だけではなく常に四苦八苦の中にいるのです。

 とはいえ、世の中には「リア充」とか「パリピ」などという言葉もあり、苦しみとは無関係で、一見、毎日が充実していて楽しいような生活をしている人もいるようです。そこまでいかずとも、私たちも面白おかしい時間を過ごすことは少なくはないでしょう。しかし、よくよく考えてみてください。振り返ってみてください。そのような楽しく充実しているようなひとときも、過ぎてみればすべては夢幻のようですし、あとになって後悔することもままあるのではないですか。
現代のようにありとあらゆる娯楽があり、無いものは作ってまで楽しもうという娯楽や快楽に対して貪欲な時代や人生はいつまでも続きはしないと思うのです。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」そのことをこの豊臣秀吉辞世の句はなんとも的確に表現しておられます。元気なときは煩悩具足の凡夫ですから勘違いして面白おかしく生きてこれたとしても、いよいよ最期の時を迎えるにあたって、如来の本願に出遇っておられなかったとしたら、ただただ虚しく恐ろしい苦しみの連続でしかなかった人生だったと思うのではないでしょうか。あなたはそれで幸せですか?

 今月の掲示板には親鸞聖人御作の御和讃から下の句だけですが引用させていただきました。全文では
「弘誓のちからをかぶらずは いずれのときにか娑婆をいでん
 仏恩ふかくおもいつつ つねに弥陀を念ずべし
とお説きくださいました。「いずれのときにか娑婆をいでん」と書かれております。面白おかしければそれで良い。などと勘違いの連続の人生を暮らし、実はその生き方こそが悩みや苦しみを生んでいることに気づかない我々凡夫は一体いつになったらその根源的な苦しみを解決できるのだろうか、とても解決できるような問題ではない。という意味です。そのために「弘誓の力をかぶることが必要だと仰います。簡単に言えば阿弥陀様の本願に出遇い、信心をいただくことが必須だということです。阿弥陀様の本願に出遇い、信心ある生活を送ることなしに、根源的な苦しみを解決することは出来ません。ということです。

 だからこそ、一刻も早く信心をいただき、苦しみを解決し、四苦八苦の中に生きてはいるものの、もはやそれが苦にはならない人生を歩みつつ、そんな我が身にしてくださった阿弥陀如来のご恩を深く思い、いつでもお念仏の日暮を皆さんと共に送りたいものだと思うのです。合掌

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