相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『無上上は真解脱 真解脱は如来なり』(2023年10月 1日)

 先日、後輩から「最近感動したことってありますか?」と尋ねられました。冗談で「いただいたどら焼きがとても美味しかった。今まで食べた中で一番美味しかった思う。」と答えました。それから数日経ったある日、違うどら焼きをいただきました。するとそのどら焼きも驚くほどに美味しく、前回のどら焼きを遙かに凌駕するおいしさに感じました。そうなりますと以前のどら焼きに対する興味が薄れ、今回のどら焼きに興味が集中します。そのどら焼きを食べている最中にふとこんな考えが浮かびました。

 もしかするとこのどら焼きよりも美味しいどら焼きが存在するかもしれません。それを追い求めて際限なく右往左往する人がいるかもしれません。年間350食食べています。現在何店舗食べ比べてみました。以前は100万円のものを持っていましたが、今は300万円のものに買い換えました。などという話もよく耳にします。考えてみれば、テレビ番組などで至高の○○、最高の○○などといって、食べ物に限らず様々な事柄の一番素晴らしいものを選び出す番組が多いように思います。これは誰もが皆、そのときはこれが最高だ。一番素晴らしいものだ。と思うのでしょうが、すぐに考えが変わって、もっと上があるのではないか?もっと美味しいものが、もっと機能の優れたものが、もっと高級感のあるものが、ともっともっとと際限なく求めて行くのが私たち人間の根性なのでしょう。このことはものだけに留まらずありとあらゆる事柄に対して起こってくると思います。宗教もそのひとつでありましょう。

 とある宗教に勧誘されて、その教祖の話を聞いてみたところいたく感動し、即日入信したものの、日を追うごとになにか違和感を感じ、より素晴らしい教えを説いている宗教を探しそちらに鞍替え。しかし結局そこも違う時間とお金を損したなどという話も聞きます。

 門徒さんから、「母は浄土真宗の門徒ではありましたが、死んでからのことよりも今この状態をなんとかしたいと言って、友人に誘われるがままにおかしな宗教に入信してしまいました。今うちにお仏壇が2つに、見たこともない仏様風の掛け軸や御札、過去帳などもあり処分に困っています。」などというようなご相談もございます。なぜその宗教に入ったのか尋ねてみますと、大抵は夫婦間の問題、家族間の問題、友人関係のもつれ、経済的な問題など、ありがちな問題が多く、特殊な問題を聞いたことはないのです。それだけ私たち人間は皆同じような問題で悩んでいるのでありましょう。

 今月掲示板に書かせていただいたのは親鸞聖人がお遺し下された御和讃から引用させていただきました。

「無上上は真解脱 真解脱は如来なり
 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる」

無上という言葉は皆さんよくご存じだと思います。無上の喜び、無上の旨さなどという使い方が一般的でしょうか。これ以上の上はないという意味です。しかしこちらでは無上にもうひとつ「上」を重ねておられます。
解脱という意味は、煩悩を捨て去り、輪廻から解放された悟りを得た状態です。それで完成されているはずですがここでも「真」をつけておられます。
どちらもこれ以上のものはない境地、真の境地を指しているように思います。 上の方で書いた内容と照らし合わせれば「もうこれ以上のどら焼きはない。」というような意味になりそうです。

 しかしこれは少し違います。無上上も真解脱もどちらも他のものと比べる必要のないという意味であります。無上上である真解脱の存在であられる阿弥陀如来は他のなにものと比べる必要はないのです。阿弥陀如来と他の如来様を比べることは意味をなしませんし、自力門と浄土門(他力)のどちらが優れているのかを考えることも無駄なのです。あっちの水が美味しそうだこっちの水は美味しいかと思い悩んだり比べたりすることで、そのときは楽しく感じたりもいたしますが、限りある人生を遠回りしているように思います。私においては他の如来がどうとか自力の教えがどうのではなく、阿弥陀如来の教えに出遇え、その教えを有り難くいただけたことが大事なのであります。自分主体の価値観に踊らされることなく、執着や疑いを離れ真の尊い人生を歩みたいものであります。合掌

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