相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『みほとけの 教へまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ』(2023年9月 1日)

 時々、本山に奉職させていただいている息子から、面白いから観てみてと動画のリンクが送られてきます。時間のあるときに送られてきた動画をテレビで観るのですが、その動画に引き続き「あなたにお勧め」という動画も勝手に再生され始めます。そんなある日なぜその動画をお勧めされたのか分かりませんが、昭和天皇陛下が全国御巡幸された模様を収めた動画が再生され始めました。昭和生まれの私ではありますが昭和天皇について知っていることはとくにありませんので拝見させていただきました。

 川崎市の工場から始められた御巡幸は、一般市民とともに歩まれ、様々な場所もご視察なさっておられました。時には農家の庭先にふと立ち寄られてお声をかけられたなんて事もあったそうです。日本国旗を振ることを禁止されていた御巡幸でしたが、ある場所で国旗が振られたため御巡幸は一時期、中止になってしまったということもありながら、再開された後も日本中を見て回られました。

 私が最も心を打たれたのは、佐賀県の洗心寮を御巡幸されたときのことです。ここは戦争孤児となってしまった子供たちが50人ほど暮らしていたお寺内にある施設です。一部屋一部屋子供たちにお声をかけられながら歩まれて行かれます。最後の部屋に入られますと3人の女の子が陛下をお待ちしていました。その中の真ん中の女の子が2つのお位牌を胸に抱いていることに気づかれた天皇陛下は直立不動になられ、その後その子にお顔を近づけ「お父さん、お母さん?」と尋ねられました。「はい。父と母のお位牌です。父は満ソ国境で戦死。母は引き上げ途中で病死しました。」と答える女の子。「お寂しい?」と陛下がおききされると、女の子は「いいえ。寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土でまた再開できるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私はお仏壇の前に座ります。そしてお父さんの名前を呼びます。お母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきてそっと抱きしめてくれるのです。私は寂しいことはありません。私は仏の子です。」と答えられました。

 陛下は女の子をじっと見つめ、頭を撫でられ、そして「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ。」とおっしゃりながらハラハラと涙をこぼされたそうです。そのとき女の子は「お父さん」と呼んだとのことでした。
そして宮中に戻られた陛下は
「みほとけの 教へまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」
とお詠みになられたました。

 「仏の子」とはどういう意味でしょうか。人間は生まれてきたときから人間ではありません。人の手で大事に育てられて人間となっていくのであります。
真偽のほどは定かではありませんが、世界中には野生の動物に育てられた子供の話がいくつもあるようです。この子供たちは可哀想ではありますが、人間に保護された後も人間として生きていけないようです。逆に人間に愛情を込めて育てられた野獣はあたかも自分を人間だと思っているかのような振る舞いで人と接しているような映像を観ることがあります。

 親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」とおっしゃいました。
阿弥陀様の長い長い時間をかけて誓われた願いをよくよく考えてみれば、それはこの親鸞一人を救ってくださるためであった」という意味です。このことはけっして親鸞聖人お一人だけ救われて、他のみんなは捨てられるということではありません。私たち一人一人が阿弥陀様の一人っ子のように大事に大事に見守られお育ていただいているとのことなのです。

 こんな話も思い出されます。あるとき釈尊がお弟子と、ガンジス河のほとりを歩いておられました。その時、釈尊は砂をひとにぎり手のひらにのせ、「この手の平の砂と、この河原の砂とでは、どちらが多いか?」とおたずねになりました。「河原の砂が多いです」と弟子は答えました。「その通りだ。この世界にはこの河原の砂と同じように、数えきれないほどの生き物がいる。その中で、人間はこの手の平に乗っている砂の数ほどしかいない。それほどに、人間として生まれることは難しいことなんだよ。」と釈尊はお話になられました。次に、釈尊は一本の指の爪の上に乗っていた砂を見せ「同じ人間に生まれることができても仏の教えに遇うことができる人はさらに少なく、この爪の上にのっているほどに希なことなんだよ。」とお話になられたのでした。

 人間として生まれてくることは本当に有り難いことであります。希中の希なできごとであります。そして人間として生まれてこれても人間になれる保証はありません。仏の子とは仏様に手を合わせ、仏様の教えを聞かせていただき、日々溌剌とした人生を歩み、仏様のような心で歩んでいく一人一人のことなのです。阿弥陀様は私たち一人一人の親様としていつでも見守ってくださっておられるのです。そのことを感じながら日々励みたいものです。合掌

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