相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『念仏の一道は 幸せへの一本道』(2023年8月 1日)

 蓮如上人(れんにょしょうにん)がお遺しくださった御文(おふみ)の一節に「法然聖人の御詞にいわく浄土をねがう行人は、病患をえて、ひとえにこれをたのしむとこそおおせられたり。」というお言葉があります。「浄土を願う人は、病気を患っても、浄土往生が近いとこれを楽しく思う」というような意味です。

 そのことを蓮如上人ご自身が病気を患ったときに、ご自身の心情を「しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもっておこらず。あさましき身なり。はずべし、かなしむべきものか。」と見つめられ、法然聖人のお心持ちと比べて、私はなんと浅ましいのだろう。恥ずかしいことだ。悲しいことだとおっしゃっいます。

 とはいえ、阿弥陀如来の御本願をいただいておられる蓮如上人におかれては、そのような心が起きてはくるものの、浄土往生させていただけるとの信心は、はっきりと定まっていますから、どのような状況にあっても大いなる安心の中にいると続けておられます。

 さて、法然聖人はご病気を患われたときに、本当に喜ばれたのでしょうか。病気そのものを悦ばれたのではないでしょう。もうすぐお浄土に往生させていただけるのだなと病気による死そのものを悦ばれたのでもないでしょう。それまでもなにものにも妨げられることのない確固たるご信心をいただいておられた法然聖人でありますが、病気を患ったことにより、目には見えない阿弥陀様の御本願のお心がいよいよ深く染み渡り、阿弥陀様のお陰様のお働きに、有り難いことです。畏れ多いことです。と悦びの涙がこぼれられたのだと思うのです。このことは当然、蓮如上人も分かっておいでの上で、信心をいまだ得ることができていない人々のためにこのような書き方でお手紙を遺されたのではないでしょうか。

 最近の酷暑の中でも、お墓参りに来られる方が大勢おられます。その中には私が酸素ボンベを背負っていることに驚かれて話しかけてくださる方もいらっしゃいます。私の身を気遣ってくださるそのお言葉への返事は大抵「病気にもなりたくはありませんでしたし、このようなボンベを使わなくては苦しくて生活に支障が出るのも嫌ですが、それでもたくさんのお陰様に生かされております。」というようなことになります。少し前でしたらかっこつけて言っていたような気もしますが、今では自分一人ではできないことが増えている毎日の中で、多くの方々に迷惑をかけながら、許されながら生かされていると、お陰様を感じずにはおられない毎日なのです。

 私も相手の方に、いかがお過ごしでしたか?などと話しかけてみますと、皆さん大体「お陰様」と言われます。しかし「お陰様」の言い方にもいろいろあると最近感じるようになりました。明るくニコニコと「お陰様」とおっしゃる方々は本当に幸せそうなのです。「歳でできることが減ってきましたけど、家族が何でも世話をしてくれるのです。今日もこうしてお嫁さんが車でお墓参りに連れてきてくれました。ご近所さんもよくしてくださいますし、本当に感謝しても仕切れないのです」というようなお返事をよく聞かされます。

 逆に少し苛つきを感じてらっしゃるような声の感じで「お陰様」という方は、少し話をしておりますと、ほとんどの方が、家族や周りに対しての愚痴をこぼされ、自分はまったくもって不幸だ。こんなはずではなかった。などということを感じておられる方が多いようです。

 幸せに満ちたお陰様の中に生きておられる方と、自分は不幸だと周りの方々に不満を抱いて生きておられる方。同じ生きるなら悦びと幸せに満ちた人生を歩みたいものです。

 私たち浄土真宗に縁をいただいた者は、阿弥陀様の御本願を聴き、ご信心をいただく機会がございます。阿弥陀様は自分が不幸だと思い、そのせいで実際に不幸な毎日を過ごしている人たちを皆もらさず救うと誓われた仏様です。なんでもかんでも周囲のせいにして、自分は不幸だ。ついていないなどと哀れんでいる人や、時には自分さえも卑下し貶めている人々だろうと全力で肯定し支え、救おうと日々働きづめでいてくださいます。そのお心に触れたとき自然と南無阿弥陀仏のお念仏がこぼれるのです。どうか阿弥陀様の御本願の一道を皆様も歩んでください。今まで気づかなかったお陰様にあふれている生活が開けてくると思います。お陰様に気づけた方々は皆幸せな人生を歩んでおられることでしょう。そしてそのお陰様の幸せを周りにもお裾分けしてくださっておられることでしょう。お陰様に生かされる。この幸せこそ絶対の幸せだと思うのです。南無阿弥陀仏

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