相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき』(2023年3月 1日)

 毎日山門の開け閉めの時や、外勤の行き帰りに見ていたはずなのに、ふと気がつきますと門前の梅が見事に開いておりました。目にはうつっていたでしょうし、頭でも理解はしていたのでしょうが、忙しさに追われていたのか、他の考え事をしたり、そもそも興味がなかったのか桃色の花の見事さにまったく気がつくことができませんでした。

 今年は年明け早々からとても多くのお檀家さんが亡くなられ、ずっとお通夜ご葬儀が続いておりました。現在相模原市や町田市などこの近隣の火葬場がとても混んでいまして、火葬場の予約が最短で2週間後などということも珍しくなくなっております。この状況はなんとかならないのでしょうか・・・1週間程度なら亡き人を見守りつつ偲ばれる大切な時間ができました。とおっしゃる方もいらっしゃいますが、2週間ともなりますと、ご遺族の疲労がとても心配になってきます。相模原市も真剣に考えていただきたいものです。

 今月の掲示板には、ご葬儀に時に拝読させていただく御和讃をいただきました。この2ヶ月の間は毎週3度ほど拝読させていただいた御和讃だと思います。

「本願力(ほんがんりき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じよくすい)へだてなし」

この御和讃は天親菩薩(てんじんぼさつ)の御著書「浄土論(じようどろん)」の中の偈文(げもん)

「觀佛本願力(かんぶつほんがんりき) 遇無空過者(ぐうむくうかしや) 能令速滿足(のうりようそくまんぞく) 功德大寶海(くどくだいほうかい)」

というお言葉を親鸞聖人が、私たちにわかりやすく訳してくださっておられます。
ちなみに真宗聖典では「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし、
能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。」と訳されております。

 觀佛本願力というお言葉は「阿弥陀如来の本願力を観たてまつれば」ということになりますが、観るとはどういうことでありましょうか?
このことに対して親鸞聖人の御著書「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」で「観は、願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり。」とお示しくださいました。

 仏教では特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察する観想という行が大事だとされており、仏説観無量寿経(ぶつせつかんむりようじゆきよう)でも定善十三観(じようぜんじゆうさんかん)という阿弥陀如来やお浄土のお姿を観る観想の修行法が説かれておりますし、親鸞聖人も比叡山で常行三昧堂(じようぎようざんまいどう)という中心に阿弥陀如来が安置されたおよそ10メートル四方のお堂内を昼夜休むことなくお念仏を称えながら阿弥陀如来の周りを歩き続け阿弥陀如来のお姿を観るという観想行をされた方であります。それくらい観察し観ていくということが大事だとされているのです。

 ところが阿弥陀如来の本願をいただいた親鸞聖人におかれましては、特定の厳しい修行を通して阿弥陀如来のお姿を観ることではなく、阿弥陀如来のあなたを必ず極楽浄土に仏としてすくい取るとの御本願が今この私に働きかけてくださっておられる働き続けてくださっておるということに気づくこと、知ることだとお説きくださっておられるのです。

 一念多念文意は次に「遇は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。」と続きます。天親菩薩は「あう」を「遇う」という文字で表されました。会うでもなく、逢うでもなく「遇う」を選ばれたことにも理由があるようです。「遇う」を辞書で引きますと「偶然に出会う、思いがけずあうことをいう。」とあります。」しかしただ偶然に本願に出遇ったということではなく、親鸞聖人は阿弥陀如来の私を救ってくださるそのお働き、お誓いを二心なく信じることだとお示しになられたのです。

 門前の梅が満開になりつつあるまで気がつかず、なんとなく毎日ぼーっと見ていましたが、万事が万事このような私なのかもしれません。忙しいとは心を亡くすと書きますがまさに私の状態を表してくださっているように思います。「阿弥陀如来の本願をしっかりと心にいただき、空しさとは無縁の満足な人生を歩みなさい。それにはただただ仏法聴聞することが大事なのですよ」と門前の梅に教えられた思いであります。合掌

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