ある晩、夢でしょうか?幻聴でしょうか?「幸せは歩いてこない」という言葉が聞こえた気がして目が覚めました。普段は朝起きるとその日にみた夢などはまったく覚えていないのですが、このときは目が覚めたので少し考え込んでしまいました。もしかして、親鸞聖人が六角堂で聴かれたような夢告だったのかな?などと思いますと簡単には眠りに戻るわけにはいかないような気もしてきました。
まず最初に頭に浮かんだのは、水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」の「幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだね。」のフレーズでした。
たしかにただ待っているだけで、幸せや安楽はやってきてはくれないでしょう。こちらからなにかに向かって歩いて行く必要があるようです。
その次に頭に浮かんできたのは天下の大将軍徳川家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」なんとも学ばされることばかりであります。そしてなかなか実行が難しいことばかりであります。さすがは戦乱の日本をまとめ上げた人のお言葉だと思います。この遺訓には本当に学ばされることが多いですし、そして自分を見つめ直すときにとても参考になりますので時々思い出すようにしてまいりました。
その次に思い浮かんだのは浄土真宗七高僧の第五祖善導大師の説かれた「二河白道」の喩えでした。御法主台下の最新御著書「その狭き白道を歩め」にもなっておりますのに3番目になって思い浮かぶとはお恥ずかしいことです。二河白道の喩えを簡単にいたしますと、西に向かって歩いている旅人がいました。その旅人を後ろから盗賊や野獣がその旅人を追いかけてきました。旅人は一心不乱に逃げていきます。すると前方に業火燃えさかる火の川と、濁流渦巻く水の川が見えてきました。向こう岸はすぐ近くに見えていますが、この火と水の川はどうにも渡り切れそうにありません。川を渡っても死、このままここに留まっていても死、戻っても死。自分は今日死んでしまうのだと恐れおののいていますと、火と水の川の間に向こう岸まで渡っている幅15センチほどの白い道があることに気がつきました。旅人がどうせ死ぬならこの道を渡ってみようかと思案していますと後ろから「あなたが死ぬことは決してないから早くその道を信じて渡りなさい」という声が聞こえてきました。すると今度は向こう岸から「あなたを必ず守り救うからこちらに渡ってきなさい」との呼び声が聞こえてきたのです。この二つの声を信じて狭き白道を歩み渡った旅人は救われました。
このお話は私たちの有様を喩えてくださっています。後ろから迫り来る盗賊や野獣は私たちの煩悩や迷いの姿を現しています。私たちの自分さえ良ければ良いという心に振り回されている様でしょう。火の川は怒りの心です。水の川とは欲望に振り回されている心です。貪欲、瞋恚、愚痴の三毒の煩悩を具足した私の姿であります。そして「早く渡りなさい」という声は釈尊の阿弥陀如来の本願をおすすめしてくださるお声です。「必ず救う」というお声は阿弥陀如来の呼び声であります。煩悩に振り回され、様々なことで悩み苦しむ私たちであります。だからこそ、ただ阿弥陀如来のあなたを救い取るとの御本願を信じお念仏を称える身とさせていただきその一筋の道を歩むことが大事なのだとのお示しであります。
ここまで思い至ったときに、「あーこのことでありました。」と「幸せは歩いてこない」とのお言葉の意味がはっきりいたしました。実は最近は徳川家康公の遺訓が重いと感じていたのです。重すぎて辛いなと思っていたのです。一つ一つはとても大事な教えだと思います。しかし、自分の病のことをふまえてお寺のことや家族のことなどを考えますとどうしても辛いことしか考えられないのです。私が壮健でまだまだ先があるのならば、重荷を背負ってじっくりと歩むことを考えていくことも大事であります。家康公の御遺訓は心の片隅においてことあるごとに思い出すようにしていけば良いかと思い始めています。
それよりも大事なことは、釈尊をはじめ親鸞聖人から連綿と続く本願寺の善知識様方がお示し下された阿弥陀如来の御本願をいただき、一筋の白道をしっかりと歩まさせていただくことなのだとこの時はっきりいたしました。白道は一見狭い心許ない道に見えるかもしれません。しかしこの道は阿弥陀如来の御本願、南無阿弥陀仏のお念仏の大道なのであります。阿弥陀如来の本願にすべて委ねさせていただきますと心も身体も大きな安穏なる安らぎの生活に変わるのであります。ふと周りを見渡しますと私の重荷を阿弥陀如来、親鸞聖人、大勢の御同朋の方々が代わりに背負ってくださっているようで、とても晴れ晴れと身軽な感覚に包まれ久しぶりに安らぎの中に安住することができた思いです。合掌