明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
年末の風物詩になっております今年の漢字ですが、令和4年の世相を表す漢字は「戦」でした。とくに考えたり予想をしていたわけではありませんでしたが、この漢字が選ばれたことにはどこか納得も感じますが、同時に違和感も感じました。
令和4年と言えば最大の出来事はロシアのウクライナに対する軍事行動でしょう。2月24日に突如としてロシアがウクライナに宣戦布告をして襲いかかったときは、世界中の人が驚きと恐怖を感じたのではないでしょうか。このことを考えますと確かに「戦」ですが、これは日本の世相と言うことではなく世界の世相ということになります。ちなみにこの「戦」が選ばれたのは2回目で、前回はアメリカで起きた同時多発テロの年です。
しかしこの「戦」が選ばれたことの理由はこの戦争だけではないそうで、前代未聞の円安、物価高により、我々の生活が日々戦いのようだったと言うこともあると解説されていました。サッカーワールドカップの日本代表の快進撃も理由のひとつだと言われています。
なんとなくこの解説には無理矢理なこじつけ感じました。ロシアの起こした戦争で日本も多大なる影響を受けていることは事実です。そして円安と物価高も日々報道されており、家計を悩ませ苦しめているようです。そういえば先日いただいた三笠山という名のどら焼きがとても小さくなっておりましたし、北海道土産でいただいた昔からあるきびだんごも驚くほど薄く小さくなっており驚かされました。なんでもかんでも値上がりか、内容量を減らされているということを実感させられたできごとでした。サッカーに関してはプロに限らずほとんどのスポーツは勝敗を決めるものが多いですからあえて「戦」というのもどうかと感じます。
しかしそれを踏まえて、今年の自分を振り返りますと、この私の心が、行動がまさに「戦」であったと思いました。いつも苛々とし、なにに対してということもないのですが常に怒りに似た感じの炎が心の奥で燃えさかっているように感じるのです。毎朝目が覚める度に仏説無量寿経のお言葉「和顔愛語・先意承問」和やかな顔で愛のある言葉をもって、相手の気持ちを先回りして接することを心に刻むのですが、気がついたときには何かメラメラと燃えているものを感じます。
いつもどなたかが亡くなられますと、ご家族の方々に亡くなられた方がどのようなお方だったか尋ねさせていただくのですが「穏やかな人でした。」というお言葉をいただくことが多いのです。そのときにいつも感じるのは「私には穏やかさがまったくないな・・・」ということであります。いつでもどこでも誰とでも穏やかに暮らしていきたいと願っているのですが、意識をして穏やかさを保とうとしても長続きしないのです。
このことはきっと私一人の問題ではないと思っています。毎日ニュースで報道される人が人を殺める事件。多くの方が騙され泣かされている詐欺事件。法で規制されても一向に後を絶たないあおり運転。その報道を見る度に「ひどいことが起きているな」と思い、怒りの心が湧いてくるものの、一瞬思うだけですぐに忘れ去ってしまう自分ではないでしょうか。いつもどこかで誰かが泣いておられます。苦しんでおられるのです。でもその人たちに思いを寄せず、いつも自分の平和や豊かさに心を砕いている自分がいませんか。その自利を追い求める姿がまさに「戦」の姿ではないでしょうか。
親鸞聖人は「世の中安穏なれ 仏法弘まれ」とおっしゃいます。私たち誰もが「戦」という争いや怒りなど求めてはいないでしょう。誰もが平和で穏やかな世界を求めているはずです。なのにそれとは真逆な日常に追われていると感じます。安穏なる暮らしとは、仏法をよくよく聴聞して、誰もが持っている自分の利益を追い求める我執を見つめ、私たち一人一人が周りの方々との縁に生かされ、生かしてもいる共生(ともいき)の世界を仏の願いの中に実感し、頷いていくことしかないと思うのです。お互いが手を合わせていける穏やかな安穏なる世界こそが本当に大事なことだと思います。
どうか今年の世相の漢字が「穏」になれるようなことを仏法聴聞を通して求めてまいりたいものです。今年もどうぞ日曜礼拝をはじめ、定例法話にお出かけください。一緒に安穏なる世界を歩める身にさせていただきたいと願っております。