相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光』(2022年11月 1日)

 先月初旬に定期的に診察で診ていただいている北里大学病院にて5日間の手術入院をして参りました。とくに大きな危険がある手術ではないのでしょうが、やはり手術や入院となると嫌なものです。

 普段は覚悟をしていると申しましょうか、諦らかに見つめることができていると申しましょうか呼吸は苦しいものの、とくに悲嘆することもなく日々を過ごしておりますが、3ヶ月に1回の間質性肺炎の検診時に、同じ症状で診察に来られている方々を見ていると、私が一番年齢が若いので「なんでこの年齢でこんなことになってしまったのかな」などと誰かと比較し悲しく辛くなることがあります。

 今回は手術のために前日のお昼に入院となったのですが、新型コロナウイルスの影響なのか私が想像していた病室の雰囲気とはまったく違っていました。皆さんカーテンを閉めていて、室内は静かなものでした。私は案外人見知りですし、気を遣う方なのでこれは助かったと思いました。

 病室に入ってカーテンを閉めたベッドの上でゆっくりしておりますと、静かな病室故に他の患者さんと看護師さんの会話が嫌でも耳に入って参ります。「○○さんは放射線治療が始まったから身体が辛いでしょう。何かあったらすぐに呼んでください。おトイレも一人では行かないでくださいね。」自分は内視鏡で静脈瘤のクリッピング手術ということでの入院でしたから、お隣さんが癌で入院されていることに驚きました。当たり前といえば当たり前のことなのでしょうが他の方の病状を考えたこともなかったのです。

「ああそうか・・・お隣さんは放射線治療か・・・良くなってほしいな」などと思っておりましたら、隣の病室から「ぎゃぁぁぁ」でもなく「うわぁぁぁ」でもなくうまく言葉にできないのですがずっと叫び声を上げている人に気がつきました。この叫び声が私が入院したお昼から、消灯時間の22時までずっと聞こえてくるのです。その頃までは気の毒なことだと思っておりましたが、結局朝まで叫んでおられ、まったく眠れずに朝を迎えたときには私も疲れ果てて苛つきも覚えまてしまいました。この方はどのような病気なのかはわかりませんが私が退院するまでずっと叫び声を上げておられましたので今もまだ同じような症状が続いているかもしれません。お気の毒なことです。

 さてこのような状況を目の当たりにしますと、「皆さんそれぞれ大変な思いをされて治療されているのだな。僕はまだまだましな方じゃないか。」などと今度は誰かと比較して自分は幸せだと考えてしまうのです。そのことを病室のベッドで気がつきますと、常に他人や環境の中で比較して、自分はついていない。不公平だ。逆にあー良かった自分はまだましなほうだ。得をした。などと毎日毎日感じて生活していることに気がつきます。

 誰かと比較をしてもその誰かも常にその状況にあるわけではなく、私もその相手と比較した時点の状況が常に続くことはないのに毎日毎日誰かと、何かと比較をしています。これは自分というものをしっかりと見つめて、自分を引き受けられていないことから生じるのでしょう。

 そんな中、仏説阿弥陀経の一節「青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)」のお言葉が思い出されました。平成を代表する歌謡曲の一曲に数えられる「世界に一つだけの花」の歌詞の元になったお言葉です。極楽浄土の池に咲く蓮の花々は青い花は青い光を、黄色いお花は黄色い光を、赤いお花は赤い光を、白いお花は白い光を誰かと比較することもなく、卑下することもなく傲ることもなくそれぞれが自分らしく一生懸命に咲いている。ということであります。

 「青いお花は良いな・・・なんで赤に生まれてしまったのだろう・・・」「自分は白い花で良かった。黄色に生まれなくて良かった」などと思うことはせず、それぞれが自分を見つめ、自分を認め自分を愛し、自分のできることを精一杯勤めることが大事なのです。本当に自分を認め、愛し、引き受けていくことは難しいことであります。ですがそんな私を全力でいつでも見守り、見捨てることなく肯定し続けてくださっておられるのが阿弥陀如来の本願です。それこそが阿弥陀如来が私たちに気づいてくれよと望まれておられることです。阿弥陀如来の御心を聞き、触れ、本当の自分に気づき認め、引き受けてください。そこに悔いのない人生が開けてくるのでありましょう。自分のことが本当にはっきりとすれば、そこには他の人々のことも認めていける和やかで安心できる世界が開けていくはずです。合掌

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