相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき』(2022年10月 1日)

 私と妻が結婚をするきっかけを作ってくださった恩人が80才で往生なさいました。数年前から癌を患われ、手術や治療を続けられ発病前と比べますと元気さは減ったものの明るくお元気に過ごされておりました。
しかし去年の年末に主治医から「あと1年です。」と余命宣告をされたのです。当初はずいぶんショックを受けられたのですが、お茶の教室を開いておられましたので、生徒さんたちが通ってこられることに生き甲斐を感じられお元気に健やかに日々を送られていましたし、先日お勤めされた亡きお母さんのご法事にお寺にみえたときもとても明るくお話をさせていただいたのです。
それから半月後、身体の調子も良いことから「改善されていますよ。」との言葉が聞けるかもしれないと期待をし、定期検診に横浜まで出向かれたのですが、まったく予期していなかった「あと残り3ヶ月でしょう。」との言葉が主治医の口から出たのです。

 この言葉を聞いた彼女はあまりのショックに立つこともできなくなり、長い時間をかけて家に戻られ、それからは毎日ベッドで過ごすようになってしまい、口を開けば「突然死で死ぬ方がよほどいい。」とそればかり言われるようになったそうです。そして宣告からわずか10日で悲しみと痛みの中に亡くなっていかれました。

 他の方の話ですが、「母は若い頃から死ぬのが怖いと言い続けておりました。ここしばらくはずっと死にたくない。怖い怖いと言っていましたので、亡くなったことは悲しいですが、母がようやく死の恐怖から解放されたのかと思うとホッとしています。」というお話を聞かせていただきました。
また違う方から「最期は薬で痛みをコントロールされたおかげで、痛みも恐怖も味わわずに往ってくれたのでそれは良かったです。」とのお言葉も聞かせていただきました。
 当然、皆さんのおっしゃることは深く頷かせられます。私も持病を持っておりますからインターネットを使って今の自分の症状と余命などという言葉で検索をかけてしまうこともあります。結果を読むとただただ恐ろしくなりますし、自分の死を考え、その後の寺や家族のことを考えるとまったく眠れなくなることがあります。そしてうまく表現できませんが、怖いような恐ろしいような心持ちになることもあります。それは先に書かせていただいた皆さんと同じ気持ちなのかもしれません。ただ、恐怖の中に最期を迎えられる方と私の心持ちには大きな違いがあるように思うのです。

 その私の気持ちを親鸞聖人は高僧和讃に
「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
とご葬儀のお勤めで拝読させていただく御和讃にお示しくださいました。阿弥陀如来の必ずあなたをすくい取るぞ。救わずにはおられんのだ。との御本願に出逢わせていただきますと、ときどきその大事なことを忘れて怯えるたり嘆くこともありますが、すぐに阿弥陀如来の本願に包まれていることを思い出し虚しさが消え去るのです。そして阿弥陀如来の大慈大悲の御心が私の身体中に満ち満ちて、明るく今この瞬間瞬間を有り難く愛おしく過ごすことができるのです。

 またお通夜のお勤めで拝読させていただいている御和讃
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
人生においていつも様々なことで悩みもがいている私たちの日々の暮らしを生死の苦海と喩えられ、自分の思い通りにしようとし続け、しかし思い通りになどなることのない人生は、泳げどももがけども安住の岸に辿り着けることは望めず、溺れていくだけでありましょう。そのような苦しみばかりの私たちを、阿弥陀如来は御本願の大悲の願船に私たちを乗せてくださり、必ず極楽浄土に往生させてくださるのです。とお示しくだされたこの御和讃を拝読させていただく度にいつも深く深くただただ有り難いことだと思うのです。

 阿弥陀如来の本願には無畏施(むいせ)という働きがございます。阿弥陀如来の本願に出逢わせていただくことで、どのような事柄も恐れることのない人生を歩ませていただける力を与えてくださるということであります。来月は報恩講がございます。親鸞聖人が悦ばれ、私たちに伝えてくださった御本願にどうか皆様も出逢われ、大悲の願船に乗っていただきたいと心から念じております。合掌

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