相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『われらは 善人にあらず 賢人にもあらず』(2021年2月 1日)

 間もなく節分です。例年2月3日が節分にあたると思っていましたが、今年は地球が太陽を回る周期と暦のズレの関係で124年ぶりに2月2日になるのだそうです。

 節分とは季節の変わり目のことで、昔は立夏、立春、立秋、立冬の前日のことを節分と言っていましたが、現在では立春の前日を節分といいます。節分に行う豆まきは、季節の変わり目に起こりがちな病気や災害を鬼に見立て、それを追い払う追儺(ついな)という宮中で行われていた鬼払いの儀式が広まったものだそうです。

 今年の節分は去年から大流行をしている新型コロナウイルスを鬼に見立て追い払い収束を願う気持ちや、同じく流行った鬼滅の刃の影響もあり、豆まきをされるご家庭が多いのではないでしょうか。ある神社では密を避け感染拡大を予防すると言うこともあり節分の行事を中止し、豆まき用に用意をしていた福豆を地域の子供達に配布するというニュースも見かけました。その豆の袋には「福は内、鬼は外、コロナも外。」と書かれているそうです。

 先に書かせていただきましたが節分で言われるところの「鬼」とは本来、病気や災害のことだそうですが、現代においては病気や災害の他にも、悩みや苦しみ、妬みや僻み、そんな自分にとって都合の悪いものも多く含まれているように感じます。ですから現代の私たちがしている節分の豆まきは、自分にとって幸せで都合が良いものだけを近くに置きたいという「福は内根性」と、自分にとって不幸の種、都合の悪いものは遠ざけてしまいたいという「鬼は外根性」の行事のように感じます。どこまでも自分にとって都合が良いか悪いか、得か損か、好きか嫌いかなどで判断しているのが私たちの根性だと思うのです。

 また「福」ということを考えてみますと、自分が認められ評価され褒められること、それとそうしてくださる相手を福と感じ。逆に「鬼」を考えてみますと、否定され反論され貶されること、それとそのようなことをしてくる人を鬼と感じているのではないでしょうか。どちらも自分以外の外から与えられることを捉えて福だ鬼だと騒いでいるのです。とくに「鬼」に関しては相手を鬼と見て、挙げ句その鬼に対して逆に毒づき返してしまうことが多いのではないでしょうか。その時自分自身が鬼になっていると気付きもしないのです。自分の内面に目を向けなければ気がつかないのです。

 親鸞聖人は深く深くどこまでもご自身の内面に目を向けられたお方です。悲嘆述懐和讃で

「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」

ご自身の心の中に蛇や蝎のような鬼がとぐろを巻いていて、やることなすこと嘘偽りばかりだと嘆いておられます。この御和讃をただ聖人がご自身を嘆いておられるだけと受け止めてはなりません。私の根性を言い表してくださったお言葉といただいていくことが大事です。私は目先の損得ばかりに心を奪われ、都合の悪いものに毒づいている時にこの御和讃をいただいて、反省し考え方や歩み方を見つめ直すように心がけております。

 今月の掲示板には聖人の御著書「唯信鈔文意」からいただきました。
法然上人門下で先輩にあたる聖覚さんの唯信鈔と言う著書をわかりやすく解説くださった御本です。唯信鈔で七高僧第五祖、善導大師の「観経疏」と言う御著書の一文「不得外現(ふとくげげん) 賢善精進之相(けんぜんしょうじんしそう)」を引用された箇所に出てくるお言葉です。
簡単に現代語にしますと「内面が虚仮不実の蛇蝎のごとき身であることは間違いないことなのだから、外面に賢いような姿、善人のような振る舞いを現すことは止めなさい。精進しているように振る舞うのも止めなさい。」となります。そしてそこからより深く内観していかれ

「われらは 善人にあらず 賢人にもあらず」

とおっしゃったのです。
善人ではなく賢人でもないということは悪人であり凡夫だということであります。鬼は外から来たものではなく常に自分の内側にあったものなのです。この鬼は外に追いやれるようなものではありません。何時でも何処でも私の心に棲みついて離れないのです。そういう自分だと気付き救くわれようのない悪人なのだと頷くことが大事なのです。救いようのない私だからこそ阿弥陀如来は救うと誓ってくださっておられるのです。日本の行事を大切にする心は大事でありますが、行事に込められた心を知り、そこから我が身の真実を見つめることが大切なことでしょう。節分を自分の内面を深く見つめる節目として頂きたいものです。合掌

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