先日テレビを観ておりましたら、駐韓ベルギー大使婦人が韓国国内の洋服店で暴行事件を起こしたとのニュースが目に入りました。
なんでも店員さんに万引きしたと間違われたことに対して大使婦人が激昂し、店員さんの頭を殴り、止めに入った店員さんに対しては頬を平手打ちし怪我を負わせたというニュースでした。
間違われたことに腹を立てることはあるとしても、暴力をふるうのは言語道断です。大使婦人が呼び止められたときに笑顔で間違いを正していれば、店員さんも深く謝罪して終わったことでしょう。しかしこの大使婦人はどうやら笑顔で対応するような人では無いように見えました。
というのも、一般的にズボンの試着をするときは皆さんもそうだと思いますが、靴は脱ぐと思います。しかしこの方は靴を履いたまま試着を繰り返したようでした。自国でも同じことをするのでしょうか?あくまでも私の個人的な感想ではありますが、韓国を馬鹿にし、アジア人を下に見た態度に感じました。だからこそ暴力をふるったのではないかと思うのです。
その後、旦那さんである駐韓ベルギー大使が謝罪のコメントを出されました。その中に「慙愧に堪えない」という言葉を使われておられました。
久しぶりに聞いた言葉でした。一昔前は政治家や一目置かれているような人が何かスキャンダルを起こしたときなどに記者会見などで「慙愧に堪えない」と謝罪している風景を目にしましたが最近はこの言葉を使う人は見かけなくなったように思います。その背景には慙愧に堪えないというほど、悪いことをした。恥ずかしいことをした。申し訳ないことをした。と、心から思う人がいなくなったからではないかと思うのです。
今月の掲示板には涅槃経から「無慙愧(むざんき)は 名づけて人(にん)とせず 名づけて 畜生(ちくしよう)とす」というお言葉をいただきました。浄土三部経(じょうどさんぶきょう)のひとつ佛説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)に描かれた、阿闍世王(あじゃせおう)という方がお父さんを殺害し、お母さんまでも殺害しようとした王舎城(おうししゃじょう)の悲劇という事件があるのですが、阿闍世王がその後改心していく後日談として語られている部分で釈尊の言葉として説かれている言葉です。
「二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生を救(たす)く。一つには慙(ざん)、二つには愧(き)なり。慙は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作(な)さしめず。慙は内に自ら羞恥(しゅうち)す、愧は発露(ほつろ)して人に向かう。慙は人に羞(は)ず、愧は天に羞ず。これを慙愧(ざんき)と名づく。無慙愧(むざんき)は名づけて人とせず、名づけて畜生(ちくしよう)とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母師長(ぶもしちよう)を恭敬(くぎょう)す。」
自分のしてしまった罪に悩み苦しむ阿闍世に対して、その苦しみを治すふたつの清らかな方法があると説かれます。それは慙と愧のふたつだというのです。慙とは、自ら罪を作らないように努力することであり、それでも犯してしまった罪に対しては深く恥じ入り反省し、周りの方々に対して自らの言動を恥じ入ることです。
愧とは、罪を犯すことの愚かさを他の人に伝えていくこと。自分の犯してしまった罪に対しては周りの方々に対して深く反省をし、仏様方に対して深く深く恥じ入っていくことです。
この慚と愧を併せて慙愧というのです。恥じ入るということはそこには同時に「有難いことでありました。」「申し訳ないことでありました。」「畏れ多いことでありました。」「赦され今日も生かさせていただいておりました。」という心も自然と湧いてくることでありましょう。
そしてこのような心が無い無慙愧のものは人とは呼ばないのですよ。そのようなものたちは畜生というのです。と続いて説かれます。自らの言動に対して、考えることもなく、痛みも感じず、反省もなく、羞恥心のかけらもない状態を畜生というのです。
そうではなく、自分の言動に対して深く深く恥じ入り、痛みを感じ、どこまでも反省していく心が起こると、有難いことであった。申し訳ないことであった。赦されて生かされておったと感謝の念がわきあがり、そこにはお父さん、お母さん、先生や目上の方、すべての人々に対して敬いの心を持って接することができるのです。と説いてくださいました。
駐韓ベルギー大使婦人は現在、脳卒中で入院中だと伝えられています。今頃、店員さんに対して、韓国の人に対して、自国民に対してどのようなお心でおられるのでしょうか。この婦人のニュースも、王舎城の悲劇も他人事として捉えては何の意味もありません。釋尊は今この時に、あなたは人か?畜生か?と問いかけてくださっておられます。合掌