『浄土は言葉のいらぬ世界である
人間の世界は言葉の必要な世界である
地獄は言葉の通じぬ世界である』
先日、ひょんな事からお盆の時期になると多くのお寺さんで芥川龍之介さんの「蜘蛛の糸」を、お話しになると言うことを知りました。なぜだろうとネットや友人の僧侶に尋ねましたが分かりませんでした。発表されたのがお盆の季節である7月だったということが大きな要因かもしれません。
このお話しは5分もあれば読み終わる短いお話しですから、興味のある方は読んでみてください。
簡単に内容をまとめますと、ある朝、釈尊(お釈迦様)が浄土の庭を散歩しておりました。とても澄んだ水で満たされた蓮の池を通して地獄の様子をふと見ますと、生前、平気で人を殺めたり、家に火を放ったりした大泥棒のカンダタという男がその報いを受けて地獄で苦しんでいる姿が目に入りました。しかしこの大悪人であるカンダタも生前たった一度だけ良いことをしたことがありました。森の中を歩いているときに地面を這っていた蜘蛛を踏みつぶそうとしたカンダタでしたが「この蜘蛛も命のあるものに違いない。むやみに殺すのは可哀想だ。」と殺すのをやめたのです。このことを知っておられた釈尊は、カンダタを救ってやろうと思われ、蓮の花に張られていた綺麗な蜘蛛の糸をカンダタの元へすぅーっと下ろされました。その糸に気付いたカンダタは「しめた!この糸を登っていけば地獄から出られるかもしれない。もしかしたら浄土という所までいけるかもしれない!」と喜び勇んで糸につかまり登っていきました。しかし地獄と浄土の距離は何万キロも離れています。途中で疲れてしまったカンダタは糸につかまりながら休憩をしました。どのくらい登ってきたのかと下を見ますと地獄は遙か彼方。このぶんだと必ず地獄から出られると喜んだカンダタですが、ふと見ますと大勢の地獄の罪人達が同じ糸を登ってきています。糸が切れることに恐怖したカンダタは「おーい!お前達!この糸は俺のものだ!糸を離して降りろ降りろ!」と叫んだのでした。すると今までなんでもなかった蜘蛛の糸がぷつりと音を立ててカンダタは元の地獄に落ちていったのでありました。その有様を見ておられた釈尊は悲しそうなお顔でまた散歩に戻られたのでした。
このお話しに皆さんはなにを感じられますでしょうか?
なぜ釈尊ははしごのように登りやすそうなものではなく蜘蛛の糸を垂らされたのでしょうか?
蜘蛛の糸を垂らされたのは、カンダタが生前行った唯一の善行、蜘蛛を殺めなかったからではないでしょうか。蜘蛛にも命があるのだろうと気がついたカンダタに蜘蛛との縁が生まれます。命の大事さを感じたことにより釈尊との縁も生まれます。仏教では縁が大事だと説きます。釈尊の教え、阿弥陀如来の本願を聞かせていただける縁が大事だと言うことが先ずひとつでありましょう。
そしてもうひとつは「この糸は俺のものだ!」と叫んだことです。自分さえ良ければいい。他人がどうなろうと知ったことではないという我利我利の亡者の心が起きたときに自分を含めたすべての者たちが結局不幸になっていくと言うことでありましょう。もしこの時に「お前たちも頑張れ!一緒に救っていただこうぞ!」と相手を思いやれる、相手の幸せを願える利他の心が芽生えたならば糸が切れることはなかったでありましょう。
浄土と地獄の違いを教えるためにこんなお話があります。
ある人が浄土と地獄の違いを見てみようと思い立ち、先ず地獄に向かいました。地獄ですからそこの罪人どもはみんな食事もなく飢えに飢えているのだろうと思っておりましたが、罪人が座る食卓の上には豪華な食事が並んでおりました。なのに罪人はみんなガリガリにやせ細っています。なぜだろうと思ってよく観察してみますと、お箸が1メートル以上もあって皆、口に食べ物を運ぶことができないのです。怒り出すもの、隣のものが箸でつまんだものを横取りするもの、とうとう大騒動がおこり誰も食べることはできなかったのです。
次に浄土に行ってみますと、浄土の住人たちは皆ふくよかで幸せそうでした。地獄と同じように食事が並んでいます。しかしよく見るとお箸も同じように長いのです。なぜ浄土の人々はふくよかなのだろうと観察していますと、浄土の人たちはお箸でつまんだものを自分で食べるのではなく、周りの人たちに「どうぞ召し上がれ」と差し出しているのでした。
今月の掲示板には、明治から私が産まれた昭和の中頃に活躍なされた曽我量深先生のお言葉を使わせていただきました。
「浄土は言葉のいらぬ世界である
人間の世界は言葉の必要な世界である
地獄は言葉の通じぬ世界である」
新型コロナウイルスの収束がまったく見えず気持ちもイライラ鬱々とするような日々が続くからでしょうか、自分の気持ちだけを叫び相手の話を聞こうとしないような事件のニュースを毎日のように見かけます。人との距離を開けることが大事だとされる世の中ですが、相手のことを思いやり、相手の幸せを願う心の距離までも離れてはいけないと思うのです。合掌