相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『世の人薄俗にして ともに不急のことを諍う』(2020年4月 1日)

 この原稿を書いている3月30日、志村けんさんの訃報を聞きました。私が産まれて一番最初にとてつもなく面白い!と思った人です。小学生の頃、夜8時には寝なさいと母に言われていましたが、土曜日の夜だけは「8時だよ!全員集合」を観ることが許されていました。それから40数年間お茶の間の人気者だった方の亡くなられたニュースには大変驚き、寂しく悲しい思いです。日本全体がどんなに困難なときであろうと、いつも明るい笑顔を届けてくれた志村けんさん、有り難うございました。そしてお疲れ様でした。

 志村さんを亡き人とした新型コロナウイルスが日本中を恐怖で包んでおります。毎日何人の方が感染されたとか、何名が亡くなったなどのニュースを拝見しますが、誰もが知る有名人が亡くなられたことで今まで暢気だった方も心を引き締められたのではないでしょうか。

 政府がマスクの転売を禁じた今現在も、市中でマスク販売を見かけることはありません。それどころかいまだあの手この手で転売をしている人がいるようです。
50枚1万円もするマスクをいったいどんな人が求めるのだろうと思いましたら病院関係者だと聞きました。本当に必要な人の足下を見て高額で転売する姿には怒りを感じます。ドラッグストアーの前には開店の何時間も前から行列ができ、その中には感染したら助からないのではと思われる高齢者の方々もおられますし、介護や看護に携わる方々が非番の日に順番に並んで手に入れようと頑張っておられるそうです。除菌剤も店頭にはなく、土日は自粛してくださいといわれるとあちらこちらのスーパーから食料品も消えてしまいます。
しかし・・・私も仕事がなければあっちこっちと回ってマスクや食べ物を探し回ってしまうでしょう。必要なものは当然としても必要以上にため込んでいく。自分さえ良ければいい。そんな心が私にもあるのだと恥ずかしい思いです。

 そんな中、とても心晴れやかなニュースを先日拝見しました。
山梨県に住む中学校1年生の生徒さんが、子どもの頃から貯めていて、一度もおろしたことのないお年玉貯金を初めておろして、高齢者の方々やお子さん達のために少しでも役に立てればとの思いで、手縫いのマスクを612枚も作り、県に寄贈されたのです。縫い物があまり得意ではない彼女は最初はまっすぐ縫うことすらできずに苦労したそうですが、それでもだんだん上手になっていったとお話しになっていました。しかも1枚1枚にそれぞれ手書きのメッセージを添えておられました。なんとも感動的で頭が下がるお話しです。

 今月の掲示板は親鸞聖人が所依の経典とされた佛説無量寿経の下巻から引用させていただきました。「世の人々は急がなくてもいいことばかりに気を取られ、時に争い、薄っぺらな人生を送っている。」ということであります。この後には「皆財産のことを憂いている。有っても無くても同じように憂う。心が落ち着かず安心できることはない。家があればあったで憂い、田や家畜を持っていればそのことで憂い、財産、衣食住のことでいつでも憂いている。身が滅び、命尽きればなにも持って行くことはできないのに。」とかなりおおざっぱな意訳ですが、釈尊はこのようにお説きになってくださいます。

 転売している人はもってのほかですが、マスクを持っていてもこれでは足りないのではないか?と憂い、持っていなければどこで手に入るのだと憂うのが私たちです。いつまで続くか分からないこのウイルスのことを考えるといったいマスクは1人何枚持っていれば安心できるのでしょうか?どれだけ有っても不安は消せないと思います。それでも人は欲しい欲しいと思ってしまいます。
今週末に自粛して家からの外出を控えるために、食料を買い占める人が大勢いらして、缶詰やカップラーメンがまったく無いと聞きました。1人何食分有れば安心できるのでしょうか?もはや皆、歯止めのきかなくなっているのかもしれません。本当に必要として困っている方が大勢おられると思うと心配です。

 志村さんに限らず、悲しいかな私たちはいつか必ずこの世を去って行かなければなりません。その時になって「転売で儲けてやったぜ!」と思えるのでしょうか?そのようなお金を得て心から喜べるのでしょうか?「あの老人も欲しがっていた食料を買い占めてやったぜ!」と思いを抱いて死んでいけるのでしょうか?

 そのような自分さえ良ければいいという心を私たち凡夫は完全に払拭できるとは思いません。しかしマスクを寄贈した少女のように、誰かのためにできることをさせていただきながら充足感と安らぎの日々を過ごしたいと思うのです。合掌

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