相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『佛の願い 佛の教えを 聴きながら 歩む人は皆 佛の子である』(2019年6月 1日)

佛の願い 佛の教えを
聴きながら 歩む人は皆
佛の子である


 5月28日川崎で恐ろしい事件が起こりました。51才の男性が大勢の小学生を含む19人に襲いかかり、3人もの尊い人命が失われました。どうしてこのような恐ろしく、かつ防ぎようのない事件が後を絶たないのでありましょうか。
亡くなられた方、怪我を負われた方、またその御親族のことを思うとやりきれません。そしてそれと同時に明日は我が身と恐ろしい思いも湧いてきます。


 数年前のことになりますが、とくに重犯罪を犯した人が収容されている刑務所を取材したドキュメンタリー番組を拝見しました。直接刑務所に赴いた方が、収容されている受刑者に様々なことを質問していました。当然なにをしてそこに収容されることになったのかというような話しが主な質問でした。「家族や仲間を何人も殺めた。」「大勢の方から多額の金品をだまし取った。」皆そのような答えをしていました。


 次に、なぜそのようなことをしてしまったのか自分なりに考えてみてください。との問いには、犯した犯罪は皆それぞれ違っているものの、大多数の受刑者の答えは親に捨てられた。親に育児放棄をされた。親がいつも喧嘩をしていたなど家族関係の問題、生い立ちによる問題が主だった答えでした。
また、そのことから若い時分に不良の道に入ってしまいそこで出会った仲間の影響で悪いことを悪いこととも思わずにむしろ自慢できることと思ってしまった。などという答えをする方も目立ったように思います。人間は1人では生きてはいけませんが、それ故に関わりのある人の影響はとても重要なことだと思い知らされます。


 最後に忘れられない質問がされました。「育った家に仏壇はありましたか?」答えは90%以上の受刑者の家にはお仏壇は無く、仏様や先祖の方々に手を合わせた経験は無いとのことでした。この答えを聞いたとき、ものすごく驚きました。しかし驚くと同時にあーそうかもしれないなと思えました。


 お仏壇に毎朝手を合わせている方々は、その時に何を考えておられますか?
「まったく何も考えずに手を合わせています。」という方はいらっしゃらないでしょう。やはりそこには阿弥陀様に対する感謝であったり、ご先祖様への敬いの念であったり、ご先祖の方々の願いを聴かせていただいておられるのではないでしょうか。このことはとても大事なことだと思うのです。ご先祖の方々のご苦労と深い深い願いの中に、今この私が生かされている。尊くかけがえのない命を今生かされている。と気付かされ、そして阿弥陀如来の必ず救うとの喚び声を聴かせていただいたところに、不平不満の多い、悩み苦労の絶えない生活が、なにも心配することがなかった。私は私のままで精一杯生かさせて頂こう歩んでいこうと反転していくのだと思うのです。


 浄土真宗では「佛の子」という言葉をよく耳にします。私は私の父と母に育てられました。育てられたとはただ赤ちゃんだった私が大人にしてもらったということだけではありません。そこには人としてどう歩むのか、何をするべきなのか、何をしてはいけないのかと言うことも教わりますし、子を思う親の願いの中に大事に育てていただきました。ですから私は「父と母の子」と言えるのであります。
ですから「佛の子」とは佛や先祖の方々の願いや教えを聴かせていただきながらお育ていただき日々歩んでいる人のことであります。


 これは年齢に関係なく子供であろうと大人であろうと、お仏壇に手を合わせ、佛の願い、佛の教えを聴かせていただき、命の尊さ、かけがえのない人生、どう生きるのか?そのことを教えられお育ていただいている私たちは皆「佛の子」だと言えるのです。


 考えてみますと昭和のドラマや映画、現在でもNHKの朝ドラの風景などを思い浮かべますと当たり前のようにお仏壇が置かれています。しかし現代のドラマを観ていても、お仏壇のある風景を見ることは皆無と言えそうです。おしゃれな現代の家には不必要なのでしょうか?それで本当に良いのでしょうか?


 重犯罪を犯した人の「先祖に感謝し手を合わすことなどなかった。」「命の尊さを考えるようなこともなかった。」家にはお仏壇などなかった。このことを真剣に考えてみてください。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」親鸞聖人はそうお示しくださいました。悪いことだけを想像してしまいがちですが、良い縁がもよおせば良い振る舞いができるのも私たち佛の子だと言えるのではないでしょうか。合掌

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