相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ』(2019年3月 1日)

見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ


 京都の龍谷大学で学ばせていただいている息子の授業が1月末で終了し、春休みとなりました。当然すぐに戻ってくると期待しておりましたが、1年生で5人しかいないという宗教局というところに在籍しており、そこからまた降誕会(花まつり)委員会というところに派遣されて、一人で式典担当という仕事を任されているためにすぐには帰れないとの連絡がありました。こうやって責任ある仕事を任されたり、東本願寺派以外のお寺さんと友達になったりして大人になっていくのだなと感心しました。が、しかしなんとも言えない寂しさを感じました。


 そのことを仲間に話しますと、「早く子離れしなさいよ。」と言われました。確かに友人知人と話していますと、子供が高校卒業する年齢あたりで子離れしたという話をよく聞きます。果たして子離れなんてできるのでしょうか?


 私は子離れした自分を想像すらできません。それで「早く子離れしなさいよ。」と言った友人に「子離れできる親なんていないと思うよ。子供が親離れしていくから結果として子離れしているように見えているだけなんじゃないかな。」と言うとその場に居合わせた友人皆が「その通りかもしれない」と言っておりました。


 よく「親の心、子知らず」といいますが、なぜそうなるのでしょうか?理由は人それぞれあるのでしょうが、ひとつには年齢を重ねていくなかに自分というものが確立していき、今まで親の言うことを聞いていたが、これからは自分の思うようにしたいということがあるでしょう。
そして私が思うもうひとつは親にしろその他の人にしろ「心は見えない」と言うことがあると思うのです。「一見は百聞に如かず」という言葉もありますし、「証拠を見せろ」などという言葉もテレビドラマの中だけではありません。私たちは目に見えるもの、手に触れられるものを求める傾向にあるようです。そのくせ「親の気持ちが重い」などと都合の悪いことはなんとなく感じたりもするようです。


 私ごとではありますが、45才の時に首都高速道路で事故を起こしたことがあります。いつもは20時、21時には就寝してしまう父ですが、この時は私が無事に家に戻った23時過ぎまで寝ずに起きて待っていてくださいました。戻ったからと言って何か会話をしたわけではないのですが、私の無事を確認できるまで眠れなかったのでありましょう。何才になっても子供は子供なのだなとその時に心から親心の有り難さを感じ、感謝せずにはおられませんでした。私たちはこのようなことがないとなかなか親心というものに気がつかないのでありましょう。


 とんちで有名な一休さんのお話しですが、夜ごと琵琶湖岸の小舟の上で座禅修行をしていたある晩、闇夜の中にカラスの鳴き声を聞いて
「カラスは見えなくともそこにいる。仏もまた見えなくとも必ずおられる。」
と、悟りに至ったそうです。


 親鸞聖人は歎異抄の中で「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」とおっしゃっておりますが、目に見えない阿弥陀如来、そしてお浄土をどこまでも信じておられるからこそのお言葉だと私は頂いております。


 今月の掲示板の言葉は金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」という詩の一節です。
「青いお空のそこふかく、海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。


 ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」


昼間の空に星は見えません。地中に埋まっているたんぽぽの根も見えません。
しかし「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」と詠まれました。見えないけれどそこに必ず存在しているのです。私たちは目に見えるものだけを肯定し、目に見えないものを否定します。目に見えないものすなわち自分には無関係で考える必要もないものだと無視します。


 私たちは一人では生きていけません。大勢の方々のお陰様に生かされております。お陰様は見えませんがお陰様を皆さんも感じ取っておられることでしょう。たまに無宗教だと断言される方がおられます。その方々も大事な方が亡くなられると「他界しました」と挨拶をされたり、喪中ハガキを送ってこられます。これらの方が言う他界とはなんなのでしょうか?他の世界ですからどこか私たちの知らない他の世界に生まれたと感じなくては出てこない言葉ではないでしょうか。目に見えるものがすべてではないのです。


 私たちの今生での生が終わったときに必ず浄土に救うと誓ってくださっておられる仏様がおられます。そして私たちの大事な方々は一人として欠けることなくそのお浄土で仏様としていつでも私たちのことを大きな親心で見守ってくださっておられることでしょう。今月はお彼岸です。彼岸とはお浄土のことであります。お浄土に往生された方々の心は目に見えません。手に触れることもできません。だからといって無いわけではありません。どうか仏様の親心を聞いてください。感じてください。合掌

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