煩悩の根は 限りなく深い
如来の御心は なお深い
去年の年末22日に急な発熱をいたしまして、インフルエンザではと危惧いたしましたが、翌る日には熱は下がり一安心いたしました。しかしその後も喉の痛みと咳に悩まされ、妻に病院に行くことをうるさいほど勧められましたが、なんだかんだと理由を作って病院に行かずそのまま新年を迎えることになりました。新年を迎えても一向に咳は止まらずようやく7日になって重い腰を上げて病院で診てもらいました。他人が体調を崩せばすぐに病院で診てもらいなさいと言うのですが、いざ自分のこととなると診てもらってお薬をいただけば楽になると分かっているのになかなか病院に行く気が起こらないのです。病院の待合室で待っているときに、このことを考えておりますと、若い頃に布教師の先生に聞かせていただいたお話しを思い出しました。
徳川家康の馬印に、「厭離穢土・欣求浄土」と書かれています。我々の住む穢れた世の中を厭い、清らかなお浄土に生まれたいと願うという意味です。しかし先生は私たちにはそれはかなわんと仰いました。穢土を離れたいと言う気持ちが起こることは難しいと仰るのです。「順番が違います。まず本願に出会って信心をいただき、お浄土に往生させていただけることを悦んで、お浄土に生まれたいと願ったときに初めて穢土を厭う気持ちが湧くのです。ですから私たちにおいては『欣求浄土・厭離穢土』が正しいと言えるのです」と教えてくださいました。
あーなるほどー本当にその通りでした。このことは大事なことだな。と、その時は深く深く感心しいつか自分の法話でもお伝えしようと思ったものでした。
しかし月日が過ぎるにつれ、先生に聞かせていただいた『欣求浄土・厭離穢土』もどこか違うのではないかという気がしてまいりました。
このことを診察室で思いだしたときに、お浄土ではありませんが、病院で診てもらえば楽になると分かりつつ、それでも病院に行きたくない自分の姿がとてもこっけいに感じました。「欣求診察・厭離風邪」が成り立たない自分の心に疑問を覚えたのです。当然体調不良を喜んでいるわけではありません。ちゃんとしたお薬を処方していただいた方が良いと分かってはいるのですが・・・
先生に診ていただいて、抗生物質など数種類のお薬を処方していただいての帰り道、歎異抄第九条を思い出しました。歎異抄第九条は著者の唯円坊が親鸞聖人に対して、「聖人のお話しを聞かせていただいて阿弥陀如来の本願の由来を知り、ご信心いただいて念仏申せる身とさせていただきましたが、躍り上がるほどの喜びの心が湧いてきませんし、早くお浄土に生まれたいという心もまったく起こってまいりません。これはどうしたことでしょうか?私の信心が間違っているからなのでしょうか?」という質問をしたところから始まります。そんな唯円に対して聖人は叱るでもなく、諭すでもなく「あーあなたもそれを感じて悩んでいたのですね。私もまったく同じ事で悩んでいたことがありました。」と優しく語り始めてくださるのです。
地獄に行くしかないとおびえていた自分を、諦めていた自分を、必ず極楽浄土に往生させるぞ。あなたを救い、仏にせずにはおれんのだと約束してくださる如来の本願をいただき、永年の苦しみから救われたにも関わらず、天に躍り地に踊るほどの事であるはずなのにまったく悦ぶ心の湧かないという、このことはまさに煩悩の仕業でありましょう。
しかし如来は、そんな私たちの煩悩のことなど百も承知で、煩悩が満ち足りた煩悩具足の凡夫だからこそ、よこしまな煩悩の欲望がかなったときにしか喜ばない私たちだからこそ、救ってやらねばならない。放っておく訳にはいかないと誓ってくださったのです。そういうわけですからお念仏の教えというのは、如来の本願とは、煩悩だらけの私たちのためにあるのだといよいよ頼もしく思えるのです。と唯円の問いに対してお答えになられます。
そして続けて、この穢土での生が終わり死を迎えたならば速やかに如来に救われて極楽浄土に往生させていただけると信じているにも関わらず、少し体調不良などで寝込んだりすれば、死ぬんではなかろうかと心配で心配で心細くなり、浄土に行きたいどころではなく、この穢土にしがみつきたい心が沸き上がります。様々な悩みや苦しみが多かろうとも、慣れ親しんだこの世は離れがたく、まだ見ぬ浄土への思いは湧いてこないのです。それだけ煩悩の根というのは私の根性に深く深く突き刺さっているのです。と、ご自身を省みられる聖人です。
そして、いくらこの穢土にしがみついていたい。死にたくはないと願っても、この世の縁が尽きて悲しみの中に死んでいくことになったならば、お浄土に救い取ってもらうだけだと仰います。穢土にしがみつき浄土に行きたいと思う心が湧かない私だからこそ、如来は憐れんでくださっておられるのだな。有り難いことだ。とお示しくださいます。
煩悩の日暮らしの一生を送る私たちだからこそ如来は、救わずにはおられないと約束してくださいます。煩悩を捨てきれない私たちだからこそ必ず救ってくださるのです。この如来の御心を知ったとき、いよいよ頼もしくそこから揺るぎない信心の明るい人生が開けてくるはずです。合掌