相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦の 称うる声も 弥陀の呼び声』(2018年11月 1日)

呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦の
称うる声も 弥陀の呼び声


 調べ物をしていましたらある短歌に目が止まりました
「呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦ぞ まず笑顔せよ みな笑顔する」
なるほどその通りです。「近頃の若者は挨拶もろくにせん。」という方がいらっしゃいますし、私もだんだんそんなことを思う年齢になってきました。


 お墓参りに来られた方に、境内でお目にかかったときには必ず挨拶をいたします。ごくたまに、私のことを変な人だと思われるのでしょうか。挨拶が戻ってこないときがあります。そんな時は私の声が小さくて聞こえなかったのだろうと思うようにしております。それに私自身のことを振り返れば、知らない人から思いもよらず挨拶をされると戸惑ってしまうこともありますから仕方ないことかもしれません。
しかし大抵の場合は朗らかなお顔で挨拶を返していただけますし、そこから天気の話しや最近の問題などについて話しが始まることもあります。


 近頃の若者は挨拶をしないという方々は、ご自身は挨拶をなさっておられるのでしょうか。苛々する前にこちらから挨拶をしてみてはいかがでしょうか。
最初は戸惑った表情をされるかもしれませんが、きっとすぐにあちらからも挨拶をしてくださるようになることでありましょう。


 人とのお付き合いというものは、まさに山彦のようなものです。こちらの態度や表情、ものの言い方次第で相手の対応も変わってきます。こちらから笑顔で挨拶をすれば、必ず相手も笑顔で挨拶を返してくれることでしょう。こちらが不機嫌な態度で接すれば、相手も不機嫌になるでしょう。
「まず笑顔せよ みな笑顔する」まさにそういうことでありましょう。
佛説無量寿経の「和顔愛語」のお言葉が思い起こされます。
和やかな顔で、表情で、愛情を込めた言葉で人と接することの大切さを説いてくださるお言葉ですが、そのお経のお心を見事に分かりやすく言い表しておられる短歌だなと感心してしまいました。


 感心しついでにどなたが詠まれた短歌なのだろうと思い検索してみました。
するととあるお寺さんのホームページに、下の句が違う歌が目に入りました。
「呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦の 称うる声も 弥陀の呼び声」
こちらではこのお歌は親鸞聖人の作だと説明されておりました。真偽のほどは分かりませんが、確かに親鸞聖人がお作りになってもおかしくはないと思いました。
難しいお言葉ですが、聖人御著書の教行信証・信巻に
「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」
というお言葉が出てまいります。名号とは「南無阿弥陀佛」のお念仏のことです。
何時でも何処でも誰でも「南無阿弥陀佛」のお念仏は称えられます。
しかし、私利私欲の混ざったお念仏は本物のお念仏ではないのです。


念仏していれば地獄ではなくて極楽浄土に行けるだろう。
年末ジャンボ宝くじを買ったからお仏壇の阿弥陀様の前に置いて毎日念仏していれば当たるかもしれない。
ちょっと無理して大学受験したけど、毎日仏壇に手を合わせて念仏してきたから合格できるかもしれない。


このようなこころで称える南無阿弥陀佛は意味を持たないただの言葉の羅列に過ぎません。


 お念仏は、阿弥陀様からの「念仏申しなさい。必ずあなたを見捨てずに極楽浄土へ仏としてすくいとりますよ。」 との呼び声に「阿弥陀様にすべてお任せいたします。」とこちらのこころが応じて、まさに山彦のように返る言葉が「南無阿弥陀佛」なのです。こちらは返そうだなどと思う必要もないのです。阿弥陀様のお心を心から味わえたときに自然とこぼれてくるのがお念仏なのです。聖人は教行信証の行巻で「本願招喚の勅命」とお示しくださっておられますが、このお心をこれまた見事に分かりやすくご教示くだされた歌であります。


 親鸞聖人は九十年の長き時間に亘り、私たちが一人でも多く、阿弥陀如来の本願に出会い、如来の「必ず救うぞ我を信ぜよ」とのお言葉にただ「はい」と素直に返事ができることの大切さを、そこから始まる悦びの生活を弘めてくださった方であります。今月28日は親鸞聖人の御命日であります。皆さんの先祖の方々も喜ばれた阿弥陀如来の本願、親鸞聖人のご苦労を思い、一緒に報恩講をお勤めいたしましょう。当寺は毎年11月21日に厳修させていただいております。
合掌

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