うらみ つらみ ねたみ そねみ
いやみ ひがみ やっかみ
録画で撮りためているドラマを少しずつ観ているのですが、先日仲村トオルさん主演ドラマの1話目を観ました。
大手都市銀行で将来を約束された役職で仕事をなさっていたのですが、その銀行が吸収合併されたことにより雲行きが怪しくなっていきます。左遷される上司や、将来に見切りを付けて退社し起業する同僚もでてきます。しかし主人公には学生の子供がおふたりいて易々と会社を辞めることができません。
そんなある晩、たまたま通りがかった道すがら出会った占い師に自分の今後を占ってもらうことにしました。するとその占い師が「人生、七味とうがらし」と言われます。七味唐辛子ってなにかと尋ねますと「人生の味付けをするのに必要な、うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみ、のことで、これからは七味唐辛子をたっぷりきかせた、味に深みのある人生になる」と占われます。様々な方から恨まれたり妬まれたり僻まれたりしながら、その事に打ち勝つことで人生に深みが出ると言うことでありましょう。
はぁ~七味唐辛子か。面白いことを言うなと感心しまして、ドラマをそっちのけでこの言葉の出典を調べてみました。このドラマの原作は「人生に七味あり」という小説で、実際に作者の江上剛さんという方が占い師に言われたのが元だそうです。
さて、確かにこの占い師さんの言うことも一理あるでしょう。私たちは時として周りの人から恨まれていると感じたり、妬(ねた)まれていると感じたり、僻(ひが)まれていると感じたり、嫌味を言われてつらい思いをすることがあります。その相手が親族であったり、信用していた人だったりした場合のショックは大変なものがあります。よくよく相手と話し合ってそのうらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみの原因を無くすことも解決方法のひとつでありましょうし、人からどのように思われようと自分の道を進み続けてそれら七味を吹き飛ばすという解決方法もあるかもしれません。
しかし、私はこの占い師さんの言葉に反論するわけではないのですが、
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだ ち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」
と、親鸞聖人の遺してくださったお言葉の方こそ真実だと信じるのです。また、親鸞聖人が日本の釈尊だと崇められた聖徳太子の十七条憲法の十五条では
「凡て人私有るときは、必ず恨み有り。憾み有るときは必ず同らず。同じからざるときは私をもって公を妨ぐ。」
簡単に現代語に訳しますと、「およそ人に私心があるときには、恨みの心が起こってくるものです。恨みの心があれば、かならずそこに不和を生じます。不和になれば周りを苦しませ、悲しい思いをさせるのです。」実際には役人に向けたものですから公務となりますが、こう訳しても問題ないと思います。
親鸞聖人も、聖徳太子も、うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみは人から与えられるものではなく、自分の心から発するものだとお示しくださっておられます。私たちの目は外を向いていますから外のことを見ることは得意ですが、内なる我が身を見つめることは苦手です。ですからテレビの中でも、現実の世界でも、あの人から恨まれているとか、妬まれているとか、僻まれているなど感じてしまいます。
親鸞聖人はそういう自分であることを充分受け止められ、ご自身のお心の奥の奥まで内観されていかれました。そして愚禿悲嘆述懐和讃の中で
「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」
と、自分の心の中は蛇や蠍のように恐ろしいものがどろどろとたまっていて、やることなすこと毒気が混ざっていると嘆かれました。
先ず大事なことは自分が人を恨んでいないか?妬んでいないか?嫌みな言葉や態度で接していないか?ということを見つめることではないでしょうか。
人は己を写す鏡だと申します。自分が恨んでいるから他人から恨まれていると感じるのではないでしょうか。自分が妬んでいるから妬まれていると思うのではないでしょうか。自分が嫌みな人間だから相手も同じように見えるのかもしれません。七味唐辛子は人から与えられるものではなく、相手に与えてしまっているものだと思うのです。
余談ですが、録画に失敗しまして2話以降観ておりません。合掌