相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『無慙愧は名づけて人とせず 名づけて畜生とす 慙愧あるがゆえに すなわちよく父母師長を恭敬す』(2018年5月 1日)

無慙愧は名づけて人とせず 名づけて畜生とす  
慙愧あるがゆえに すなわちよく父母師長を恭敬す


 先日、居間で書き物をしていると、妻が観ていたテレビドラマでニュースキャスターの方が「誠に慙愧(ざんき)の念に堪えません。」と言っていました。
私が若い頃、政治家や会社のトップの方などがなにか失敗をしてしまった時など記者会見などの場で「誠に慙愧の念に堪えません。」と仰っておられた記憶はあるのですが、最近まったく聞かなくなった言葉だなと思い、テレビを観始めてしまいました。


 どうしてそのニュースキャスターがその台詞を言ったのかというと、自分たちが信念を持って報道してきたことで、とある方を自死させてしまった。しかし実は冤罪で真犯人が見つかった。誠に申し訳ありませんでした。というような意味合いだったのですが、この使い方にはなんとなく疑問が残りました。
数年前にやはりテレビなのですが、期待していたイベントが主役の病気で中止になったとき、興行主の方が「慙愧に堪えません。」といっているのを拝見しましたが、これなどはまったく意味が通らず使い方が間違っています。


 ニュースキャスターの方はそんなにずれていないかもしれませんが、興行主の方においては「残念です。」というような意味で使われているのだと思うのです。
現在は「残念です。」「申し訳ありません。」というような意味として間違って使われているのかもしれません。


 この言葉に限らず間違った意味で使ってしまっている日本語がとても多いようです。クイズ番組でも問題になっていて私自身も間違っていることを知らずに使っている言葉がけっこうあり勉強になることが多いですから、「慙愧に堪えない。」という言葉も最近あまり耳にしない言葉ですから「残念だ。」という意味に捉えておられる方も多いのかもしれません。


 ではこの言葉の本当の意味は何なのでしょうか。その答えは親鸞聖人が御著書「教行信証・信巻」に涅槃経から引用なさってお示しくださいました。


 「慙は内に自ら羞恥(しゆうち)す 愧は発露(ほつろ)して人に向かう
  慙は人に羞(は)ず 愧は天に羞(は)ず」



 自分自身の行いや考え方などをしっかり見つめる中に、なんとも浅はかで恥ずかしい私だと自分に対しても他人様に向かっても恥じ入っていくことです。また、他人様や仏様、先に往生なさった先祖の方々に対して恥ずかしい私であったとどこまでも恥じ入っていくことです。
恥ずかしいと気がつけるということは、今までの自分の過ちに気がつけたと言うことでありましょう。自分の本質に気づけず、自分が正しいと思っているときには恥ずかしいという気持ちは起こらないはずです。


 自分は正しい。間違っていることなどひとつも無い。自分のお陰で家族や会社は順調なのだ。などと大抵は勘違いしてしまいます。私もそのような点がやはり恥ずかしながらございます。しかし、仏法聴聞の中に仏の智慧を通して、阿弥陀如来の本願を通して自分自身を見つめていくと、今まで感じていたこととは逆に、周りの方々、先祖の方々のお陰で今の自分があったのだ。有り難いことでありました。勿体ないことでありました。お陰様でありました。生かされておりました。と発見でき、そのことから「恥ずかしい私でありました。」と気がつけるでありましょう。


 先のお言葉に続いて
 「無慙愧は名づけて人とせず 名づけて畜生とす」とあります。
畜生という言葉も最近はあまり耳にしませんし、使うこともないかもしれません。ただこれもやはり「自分が正しいのだ。」「自分の頑張りのお陰でみんな幸せなのだ。」などと勘違いしていますと、自分の行いが正当な評価を得ていないと感じたときなどにその相手に対して声に出したり、または心の中で「畜生!」と叫んでしまったりしていないでしょうか。これはまさに慙愧の心が無いから生じるものであります。相手のことを畜生だと決めつけていますが、これもまったく逆で、普段は気付いていない自分の中に巣くう畜生そのものが口から吐き出されているのでしょう。まったくもって自分が畜生なのであります。


そして最後に「慙愧あるがゆえに すなわちよく父母師長を恭敬す」とお説きくださいました。本当の自分の根性に気付かされ、本質を見つめることができたとき、初めてなんとも恥ずかしい私であったと慙愧の心が芽生えます。その心が起きたとき、そこにようやく父母をはじめとして、すべての方々に対して敬いの心を持って接することができるのだとお示しくださったことであります。


 自分の中の畜生に気付けないままでは人を傷つけるばかりの寂しい人生だと思うのです。慙愧の心を持つことは鬱々とした人生を歩むことではありません。人を敬えることで、自分自身も周りの方からも敬れることでありましょう。互いに相手を敬える幸せな人生を歩みたいものです。合掌

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