相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』(2018年4月 1日)

明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは


 昨年晩夏、親戚のおばさんの胆管に癌が見つかりました。もはや手術は無理とのことで、できる処置をしていただきながら入退院を繰り返しておられました。


 平成2年に亡くなった祖父の従姉妹なので、おばさんというのもおかしいのですが、子供の頃からおばさんと呼んでいました。祖父のことをお兄さん、祖母のことはお姉さんと呼んで、祖母が健在の頃は週に何度もうちに来て祖母の相手をしてくれていました。


 祖母が平成24年にお浄土に還られてからは個人的にうちを訪ねて来られる回数は減りましたが、婦人会の役員もしてくださっておられたので月に数回はお目にかかっていました。回数は減ったもののうちに来られると最近体調が悪いことの多い私の母に対して「美智枝ちゃんを看取るのは嫌だからね。」といつも心配してくださっておられました。


 おばさんはまだ81歳でしたが「ようやく死ねる。」などとも仰っていました。言葉通りの意味ではなくてまさに母を看取らないで済んだという安心感から出た言葉でありましょう。当然死にたいなどと思っておられたとは思えませんし、旦那さんや息子さん方のことも種々心配事はおありだったことでしょう。


 私が妻とお見舞いに行ったときは、こちらがお見舞いに伺っているにもかかわらず、私の身体と妻のことを「住職の身体が心配。」「若坊守も大変でしょうけれど身体に気をつけてね。」としきりに気遣ってくださり、かえって恐縮したものです。


 実際、年を越すのは難しいのではないかと思っていましたが、お正月にはご家族揃ってお寺にご挨拶に来てくださり、これはまだまだ大丈夫だななどと思っていましたが、2月の半ば、緩和ケア病棟に入院せざるを得なくなられました。


 これはいよいよお別れなのかと、母と妻を連れてお見舞いに向かいました。痩せ細られ、点滴だけで栄養補給をされ、時間の感覚もこんがらがるような状態でしたが、いつもと同じように私たちの健康を心配してくださるのです。普段大きなお声で話しをされるおばさんでしたが、か細い声で母の身体のことをしきりに気遣ってくださり、私の身体のこともしきりに気遣ってくださり、妻のこれからのことも大変心配して気遣ってくださるのでした。そして話しの合間合間に「ありがとうね。ありがとうね。」と感謝の言葉を伝えてくださり、「お兄さんやお姉さんのいるところに行けるのだから有り難いばかりだわ。」と小さな声でしたが仰っておられました。


 若い頃から仏法聴聞に親しまれ、日曜礼拝も定例法話も休まずに参詣くださったおばさんでした。死んだらどうなるのかという「後生の一大事」をはっきりと見つめられ、浄土三部経に説かれている西方極楽浄土に必ず阿弥陀如来に救っていただけることを、そして佛説阿弥陀経に説かれる「倶會一處(くえいつしよ)」必ずまた先に往生されて仏様になられた方々と再会できることを楽しみにされておられたおばさんでした。


 親鸞聖人が数えの9歳で詠まれた詩
「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
親鸞聖人は青蓮院の慈鎮和尚に出家得度を願い出た時に、もっと大人になってから僧侶の道を目指しても良いのではないか?と一旦は断られました。しかし少年だった親鸞聖人の真剣な思いに、慈鎮和尚も出家得度を許されたのです。しかし、今日はもう遅いので明日改めて得度をしましょうと仰る慈鎮和尚に対してこの詩をお詠みになったのであります。
明日がある。明日やればいい。などと先延ばし先延ばししていて、今夜私に死が訪れたなら取り返しの付かないことになるではありませんか。というお心です。


 比叡山で20年間もの厳しい修行のすえ、如何なる修行をつんでも私は救われないと悩み苦しまれた親鸞聖人が、浄土宗の宗祖法然上人に出逢われ、阿弥陀如来をただただ二心無く一心に信じて南無阿弥陀佛のお念仏を称えれば必ず極楽浄土に救い取っていただけるのだ。それ以外に私が救われる道が二つも三つもあるだろうかとお念仏の道をお示しくだされたことで幼い頃から苦しまれておられた親鸞聖人の「後生の一大事」が解決したのです。


 今回遺された私たちは寂しさでいっぱいですが、往生されたおばさんも「後生の一大事」を解決された方でありました。安心して亡くなって行かれ、今頃私の祖父や祖母、またご両親方々に再会されて私たちのことを案じてくださっておられることでありましょう。合掌

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