相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞなづけたる 無耳人とぞのべたまう』(2018年2月 1日)

浄土をうたがう衆生をば
無眼人とぞなづけたる
無耳人とぞのべたまう


 1月の半ば過ぎのことです。長野県のとある警察署から身元不明のご遺体の身元を探しておられるとの問い合わせの電話がございました。そのご遺体は身元が分かるものを何一つとして所持しておられなかったのですが、お位牌をひとつだけ持っておられたのだそうです。


 警察の方が近所のお寺さんに出向き、そちらのご住職さんに位牌を見ていただいたところ、この位牌の書き方は東本願寺派のものですと教えてくださったというのです。
※浄土真宗東本願寺派では本来お位牌は使わず、法名軸や過去帳を用います。
東本願寺派の位牌だと分かったと言うことで次にインターネットを使って調べたところ東本願寺派のお寺が17か寺見つかったそうで、そこで当寺に電話をかけてこられたのだそうです。


 そこで東本願寺派は400か寺ほどありますし、大谷派も書き方は同じでしょうから大谷派も含めますと1万か寺を超えると思います。と教えて差し上げ、お位牌に掘られている内容を伺い、寺の過去帳から調べてみました。
そのお位牌に掘られていた方は私よりも若い女性でしたが、うちにはその方の情報はございませんでした。警察の方に残念ながらうちでは分かりませんと答えて電話を切った後、仲間のお坊さんにも尋ねましたが、私の知り合いのお寺では見つかりませんでした。


 寒い季節の長野県で、奥さんでしょうか?娘さんでしょうか?それともご兄弟でしょうか?どのような続柄なのか分かりませんが、ただひとつ若い女性のお位牌だけを肌身離さず持ちながら亡くなられていかれた方のお気持ちを思うと涙を禁じ得ません。


 数年前のことになります。家族ぐるみで付き合っている親友の義母さんが難病を患われ若くしてお亡くなりになりました。私に葬儀をと頼まれたのですが、宗派が違ったので葬儀屋さんに紹介されたお寺さんに葬儀をお願いなされ、私もお通夜にお参りをさせていただきました。通夜説法で導師のご住職さんが「人は亡くなると無になるとお釈迦様は説かれました。」とおっしゃいました。人は亡くなると無になってしまうから今この人生をお母さんの分まで頑張って過ごしなさいと言うような内容でした。


 これは大きな勘違いです。あるお弟子さんが釈尊に「死後の世界はあるのですか?」と尋ねたとき、釈尊はなにもお答えにならなかったというお話しがございます。このご住職のお話は、死後の世界はあるのでしょうかという問いに答えなかったのは死後の世界は無いからだという理屈です。ある問いかけに対して釈尊がお答えにならなかったことを「無記(むき)」と言います。このような有るとか無いとかいう議論は終わり無く続くとことが分かっているので、そのような無駄なことに時間をかけずに自らの修行を完成しなさいとの釋尊のお心です。現に釈尊が遺されたお言葉を集めた法句経の第1章で、はっきりと釈尊は来世という言葉を使っておられます。


『悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいてさらに悩む。』(第17句)


『善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいてさらに喜ぶ。』(第18句)


 浄土真宗の門徒は阿弥陀如来の他力のご信心をいただいて南無阿弥陀佛のお念仏を喜ばせていただき、後生は必ずお浄土へ仏様として往生させていただけるのです。仏説阿弥陀経には「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉が出てまいります。悲しいかな今生でのお別れは避けられないとしても、阿弥陀如来のお救いによって必ず極楽浄土に生まれさせていただき、先に往生していかれた方々とまたひとつのところで会うことができるのだということです。
第11句には


『まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実に達しない。』
とあります。


親鸞聖人の遺された浄土和讃にも「大聖易往(だいしょういおう)とときたもう 浄土をうたがう衆生をば 無眼人(むげんにん)とぞなづけたる 無耳人(むににん)とぞのべたもう」とお示しくださいました。釈尊が阿弥陀如来のお浄土を勧めて、信じやすく行きやすいところだと説かれましたが、そのお浄土を疑って信じない者は目があっても無いようなもの。耳があっても無いようなものだと戒めておられるのです。


 長野県で亡くなられたお方に何があったのはまったく分かりません。しかし釈尊が説かれ親鸞聖人がお弘めくだされた阿弥陀如来の本願を疑うことなくいただき、必ず極楽浄土で再会できるのだと信じて、大事な方のお位牌を大切に抱きしめながら亡くなられたお姿、ご信心を思うと手を合わさずにはおられません。合掌

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