相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『我必ずしも聖にあらず 彼必ずしも愚にあらず 共に是れ凡夫ならくのみ』(2017年9月 1日)

我必ずしも聖にあらず 
彼必ずしも愚にあらず 
共に是れ凡夫ならくのみ
        聖徳太子


 子供の頃は読書好きでしたが、結婚したころから極端に読書をする時間が減りました。それでも年に仏教書だけでも20数冊は読むでしょうか。
子供の頃は一気に1冊読み終えることが多かったのですが、最近は数冊同時に読んでいくことが多く、仏教書を読みながら疲れると推理小説を読んでみたり、漫画本を読んでみたりとあれこれ手を出すのでなかなか1冊読み終えるのに時間がかかります。また、求めた時点で安心してしまうことも多く、一度も開いていない本も数冊手元にあり、これではいかんなと反省しております。


 さて、先月も仏教書を扱う法蔵館というところから売れ筋になっていた仏教書を3冊求めました。たまたまこれら3冊とも現代の浄土真宗の考え方、布教の内容を、親鸞聖人の教えを読み間違っているというスタンスで書かれておられる内容でした。そういった本が売れている背景も興味深いものです。


 先月はとにかく忙しく、まだ1冊目の途中までしか目を通していないのですが、蓮如上人をはじめとして、善知識の方々や大勢の先生方が弘めてきた浄土真宗は、親鸞聖人が弘められた教えを読み間違っていると、親鸞聖人の遺された御著書を様々な角度で読み解いてくださっておられます。


 私のような浅学のものにとって「あーそういうことでございましたか。確かにその通りでございましょう。」と今まで疑問に思っていたことなどがストンと腑に落ちたりしまして、良い本に巡り会えたなどと単純に思ってしまうのですが、気になるのは、ところどころこの本を読んだ人が「これは私のことではないか」と簡単に分かるような書き方で特定の人を批判なさっておられる箇所が目立つことです。批判なさっておられる内容も紹介されておられるので、確かにこれは間違っておられるな。著者の先生の仰るとおりだなとは思うのですが、批判された人はたまったものではありません。


 仏教や学問だけに限らず様々な事柄は、何も考えず当たり前と思って受け止めているだけでは進歩がありませんし、間違いに気付かずにやり続けることがありますので、新たな学説を発表したり、疑問を投げかけたり、時には言い争いになるほどの討論を必要とする場面があるでしょう。しかし、紙面やテレビ番組などにおいて特定の人を批判、攻撃するのは間違っていると思うのです。間違っておられたのならば批判するのではなく、教え導いてあげれば良いのではないかと思うのです。


 朝やお昼の情報ワイドショーなどを観ていても、心の温まる話しはごくごくわずかです。メインは「芸能人が不倫した。」「家族の血みどろの争い。」「政治家の汚職疑惑」そんなものばかりで、大抵はレポーターの方が追いかけ回してマイクをつきだして相手から話を聞き出そうとしておられます。
真実はどうなのか聞きただそうとしているのなら分かりますし、少しは興味も湧きますが、最初から相手を悪者と決めつけて、あなたはこうこう言っているけど本当はこうなのでしょと誘導しているように見えることが多いです。視聴者が望んでいると思われる方向に誘導して「ほらやはりあなたは嘘をついている。あなたのしたことはとても大きな間違いなんだ」という方向に持って行き、それをスタジオにいるコメンテーターがそれぞれの立場で面白おかしく厳しく批判していくばかりで観ていて楽しくありません。最近は芸能人の不倫の話しばかり目に付きます。不倫は確かに人を傷つけるばかりでいけないことですが、だからといってテレビの電波を使って大々的に批判するような話しなのか甚だ疑問です。


 話は大きく変わりますが、最近の小中学校の教科書には聖徳太子はいなかったとの新説が掲載されていると聞きました。聖徳太子は厩戸皇子をモデルにした架空の人だそうです。
もしかするとそれが真実なのかもしれません。ありとあらゆる研究をなさって様々な答えを導き出されるのも前向きで建設的なことでしょう。しかし、聖徳太子はいなかった。十七条憲法もあとから作られた捏造だなどと批判されるのは意味がないように思うのです。大切なのは実在したとかどうかではなく、その教えが、そのお心が、今私に働きかけてくださっておられることではないでしょうか。


 十七条憲法を考えてみましても、聖徳太子が作られたのではないとか、後の時代に作られたとか研究なさるのもけっこうですが、史実は史実として学者の方にお任せして、私たちにはこの憲法に書かれたお心をいただいていくことが大事なのです。
和をなによりも大事にし、いさかいを起こさぬことを心がけなさい。
その実現のためには篤く三宝を敬いなさい。三宝とは仏法僧のことです。
私がいつも正しいとは限りません。相手がいつも間違った存在であるとも限りません。共に凡夫なのですから相手の話を良く聞き、相手が憤っていたならば私が間違っているのではないかと自分を省みなさい。そのお心をいただくことが大事ではありませんか?


 また、有名なエピソードに同時に7人の話しを聞き分けることができたとあります。それも嘘だ本当だが大事なのではなく、意見の違う様々な人の話を聞いて、誰もが納得できる答えを仏教の教えから導いたと言うことでありましょうし、もう一面は自分の考えを押しつけるのではなく相手の話をよくよく聞いていくことが大事なのだと教えてくださっておられるのでありましょう。合掌

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