相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『死にむかって進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ』(2017年8月 1日)

死にむかって進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ


 今から6年前の平成23年11月20日、21日当寺において親鸞聖人750回御遠忌が厳修されました。この時に記念講演として20日には映画おくりびとの原作者であられる青木新門さんを、21日には先日105歳でお亡くなりになった日野原重明先生にお越しいただきました。日野原先生はキリスト教の信者さんですが「いのち」を深く見つめながら精力的に活動されておられたお方なのでお願いさせていただいたのです。


 日野原先生は1970年3月31日に日航機「よど号」のハイジャック事件に巻き込まれました。先生は機内で犯人に借りたドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読まれたそうです。冒頭の「1粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ1つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネによる福音書12章24節)が目に飛び込んできたそうで「機内へ強行突入があれば、私は死ぬかもしれないが、その死は何かの意味を持つのではないか。」と思われたそうです。そして無事に解放されたときに「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と心に誓われたそうです。


 もうひとつ有名なエピソードとして最初に担当した結核に冒された16才の少女の話しがあります。死を覚悟した少女が「お母さんにお礼が言いたいのです。苦労して育ててくれたこと、病気の私を一生懸命面倒見てくれたこと。先生この感謝の思いを私の代わりに伝えて下さい。」と手を合わせて懇願されました。その彼女に「馬鹿なことを言うな。死ぬなんて考えないでしっかりしなさい」と言ってその言葉を否定したのだそうです。何とか延命しようと弱っている彼女に強心剤を打って「頑張れ、頑張れ」と大声で叫び続けたといわれます。先生は彼女の遺体を前にして、どうして「安心して成仏しなさい。お母さんには、私があなたの気持ちをちゃんと伝えてあげるから」と言ってあげられなかったのだろうと悔やまれてならなかったそうです。この時に、医師というものはただ患者さんの命を助けるだけじゃない。死にゆく人たちの心を支え、死を受け入れるための援助をしなければならないのだ思ったとおっしゃっておられます。


 このふたつの出来事に先生はいのちというものを深く深く考えられたのでしょう。先生は全国の小学校などで「いのちの授業」というものを開催し子供達にいのちとはなにかを話し教え続けられました。
 私も先生の本は数冊読ませていただいただきました。いのちのこともそうですが、どう生きるのかいかに生きるのかということをとても優しくわかりやすい言葉で伝えてくださっておられたいへん勉強になります。たくさん御著書を出されておられますが「十歳のきみへ」の中からお言葉を紹介させていただこうと思います。


 この本の中で先生は"寿命"とは時間のことだとおっしゃいます。
寿という漢字はことぶきとも読み、長生きを祝うという意味だとおっしゃいます。そのあと様々な考察を重ねられ、寿命というのは生きることに費やすことのできる時間だとおっしゃいます。続いて「からっぽのうつわのなかに、いのちを注ぐこと。それが生きるということです。」とおっしゃいます。「はい、きみは日本人ですね。では今のところの平均寿命は82歳ですから、82年分の時間を差し上げましょう。」と、平均寿命に見合った時間をぽんと手渡されるようなものではありません。それではまるで生まれた瞬間から寿命という持ち時間をどんどん削っていくようでなんだか生きていくのが寂しい感じがしてきます。私がイメージする寿命とは手持ち時間を削っていくというのとはまるで反対に、寿命という大きな空っぽの器の中に、精一杯生きた一瞬一瞬を詰め込んでいくイメージです。」とおっしゃっています。


 辞書で調べますと寿も命も昔から日本ではいのちと読み、意味も同じとして扱われてきたようです。ですが、"寿"は無量寿をさしていると思うのです。計り知れない無量のいのちだと思うのです。いのちそのものといっても良いと思います。私がどうあろうと生かそうとしてくださる無量の阿弥陀如来のいのち、無量の広がりを持った広大無辺のいのち、お陰様のなかに生かされているいのちだと感ずるのです。


 以前、若くして癌で亡くなられた北海道の浄土真宗のお寺の坊守、鈴木章子さんのご本を読ませていただいたことがあります。鈴木さんは、
「死にむかって進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ
 今ゼロであって当然の私が今生きている
 ひき算から足し算の変換誰が教えてくれたのでしょう
 新しい生命嬉しくて踊っています」
という詩を遺されました。日野原先生と鈴木さんのお言葉は似ています。似ていますが"いのち"のいただき方に少し違いを感じます。


これはお二人の思想的な違いではなく仏教とキリスト教のいのちに対するいただき方の違いかもしれないと思っています。お二人共に本当に尊敬できる目標としたいお方でありましす。賜った尊いいのちを深く味わいたいと思います。
日野原先生ありがとうございました。合掌

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