自分を引き受けている人を幸せな人という
自分を否定している人を不幸な人という
御本山で部長をされておられた方が富山県のお寺さんと養子縁組みをされ、ご家族みんなで入寺なさることとなり、5月18日に傳燈継承奉告法要という大きな法要が勤まるということで、私も17日から19日までお手伝いをしに北陸に行ってきました
東京駅で新幹線を待っていると、私の前に小さな幼稚園入園前くらいのお子さんと、生後1年も経っていない赤ちゃんを連れたご家族が並んでおられました。片道2時間半・・・できたら席は遠く離れたいな・・・などと考えてしまいました。新幹線が到着して席に進んでいくとそのご家族連れは後部の方に陣取られ、私はその客車の一番前の席を予約していましたから、よかったよかった幸先いいなと思いました。
私の隣は空席でした。このまま誰も来なければいいな。などと思いながらお弁当をいただいていると上野駅から赤ちゃんを連れたお母さんが入ってこられ、手に持っていたビニール袋をドサッと私の隣の席に投げ込んできました。大げさではなく本当に投げ込んできたのです。食事中の私は一瞬むっとしましたが、小さな赤ちゃんをだっこして、大きな荷物も持っているし。投げたくて投げたわけではないのでしょう。
お母さんが席に着くなり待ってましたと赤ちゃんは泣き出します。最初の親子連れと離れたいと思ったのも確かですが、赤ちゃんが泣くのは当たり前ですから腹は立ちません。でも、赤ちゃんが泣き出すたびにお母さんは赤ちゃんをだっこして客車から出て行きデッキ部分で泣き止むまで立っておられました。赤ちゃんはそんなお母さんの苦労も知らずに何度も泣きだします。そのたびにお母さんは席を立たれます。何度目でしょうか?新幹線が高崎に着く辺りで人見知りな私ですが、思い切って「私なら気にしませんので大丈夫ですよ。何度も何度もたいへんでしょ」と話しかけました。するとすみませんと返事をされましたが、お客さんは私だけではありませんので、その後も何度も何度も席を立たれていました。
今から行く北陸の方では阿弥陀様を親様と呼ぶ方が多いのですが、高僧和讃に「釈迦弥陀は慈悲の父母」とあり、左訓と呼ぶ親鸞聖人ご自身がおつけになられた解説に「釈迦は父なり、弥陀は母なりとたとへたまへり」と記されておられるとおりお母さんの愛情とはまさに阿弥陀様のお慈悲のようなものなのだなと有難く思いました。
長野県にさしかかってしばらくしてその親子が降りていくと、今まで気付かなかった通路を挟んだシートで大声で話し続けるご婦人方の会話が耳に入ってきました。盗み聞きではありませんが、最近の新幹線は本当に静かですし、ご婦人方は少しお酒が入っておりとにかく大声なので否が応でも耳に入ってきます。
曰く「うちの亭主なんかほんとに駄目おやじで休みの日は一日中ごろごろしていて邪魔で仕方ないのよ。」「あらあなたのところなんかまだましようちの馬鹿は給料出てもすぐにパチンコですっちゃうんだからいつまでたってもうちは貧乏よ。」などなど、ちょっとは恥を知りなさいと思うようなことを話し続けていました。するとそこに「うちの方が不幸だ。あんたなんか幸せグループだ」「あんたが不幸ならうちなんか大不幸よ!」という言葉が耳に入ってきました。「大不幸」始めて聞く言葉です。面白いことをいうなとちょっと笑ってしまいましたがここで考えさせられました。
世の中の大抵の事には反対を意味する言葉があります。例えば「右と左」「上と下」「男と女」「貧と富」「苦と楽」「善と悪」などなど。
しかし「幸」の対義語はないのです。「不幸」とは幸せではないという意味です。このことから不幸という状態を考えてみますと、幸せではないという状態は幸せを感じられない状態といえます。幸せは身近なところにあったとか、小さな幸せが本当の幸せでしたなどという言葉を聞きますが、釈尊は
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う」
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりしたならば、福楽はその人に付き従う」
とお示しくださっておられます。福楽とは幸せのことです。その幸せが清らかな心で話したり行う人からは、陰が身体から離れないように付き従うともお示しくださっておられます。
私たちが不幸だと感じているとき、大抵は先ほどのご婦人方の話のようにあなたは幸せだ。私は不幸だと必ずなにかと対比をしていたり、今の私は不当な評価をされているもっと認められてしかるべきだ。今の私は本当の私ではないと自分を否定しているときなどではないでしょうか。
誰もが幸せになりたいと念じています。念じるとは今の心と書きます。今の私のありのままをすべて引き受けていける心をいただくことが幸せになる唯一の方法ではないでしょうか。それは今このままの私を、あなたはあなたのままでとても素晴らしいのだよ。そのままそのままで尊い存在なのですよ。といつでもありのままの私を温かいお慈悲で包んでくださっておられる阿弥陀如来の御心に気付かせて頂くことではないでしょうか。合掌