相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『天上天下唯我独尊 生きとし生けるものは 皆等しく尊い』(2017年4月 1日)

天上天下唯我独尊
生きとし生けるものは 皆等しく尊い


 今から2500年ほど前、今のネパールにあたる(インドという説もあります)ルンビニー園というところで浄飯王(じょうぼんおう)と摩耶夫人(まやぶにん)の長男として釈尊(しゃくそん)はお誕生あそばれました。お生まれになられてすぐに立ち上がられて7歩あゆまれ、右手で天を左手で地を指し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言したといわれております。


 7歩あゆまれたということには意味があります。仏教では私たちの住む人間の世界を含めて世界を10に分けて考えています。地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天上道(てんじょうどう)までの6つの世界は迷い苦しみの絶えない六道(ろくどう)、もしくは六悪道(ろくあくどう)といいます。その上に声聞道(しょうもんどう)、縁覚道(えんがくどう)、菩薩道(ぼさつどう)、仏道(ぶつどう)という四聖道(ししょうどう)という世界があると考えているのです。皆さんの大切な方が阿弥陀如来の本願に救われて往生されて行かれた極楽浄土(ごくらくじょうど)は仏道に含まれます。
釈尊が7歩あゆまれたとことは迷い苦しみの絶えない世界を超えて、安らかで心の穏やかな悟りの世界、すなわち仏になることが大事なのだということをあらわされたのです。ですから仏法を聴聞し仏道を歩むということは、成仏させていただく人生を歩む、成仏道を歩むということなのです。

 さて、七歩あゆまれたあとに「天上天下唯我独尊」と宣言されたことはどういう意味なのでありましょうか、「天の上にも天の下にもただ私1人(釈尊)が尊い」という傲慢きわまりない宣言だと勘違いなさっておられる方をお見受けします。最近はあまり見かけなくなったように思うのですが私の若かった頃には、やんちゃな若者の服に「天上天下唯我独尊」と刺繍されていることがありました。これなどはまさしく勘違いのなせることでありましょう。


 私1人が尊いと仰った本意は仏説無量寿経にも「無有代者(むうだいしゃ)」というお言葉が出てまいりますが、「私という存在は誰にも代わることのできない、また代われることもできない人間として生まれており、この命のまま尊いのだ。」という意味でありまして、すなわち「生きとし生けるものは皆ことごとく等しく尊い存在であります。」という宣言であられます。
私たちは様々なことであれこれ差別をいたします。男である女である、若い年寄り、頭がいい頭が悪い、見た目がいい見た目が悪い等々あらゆる事で差別をし、順位や序列など上下を作ります。友人関係の中にも上下を作ることもあります。


 このことは今は無くなったといわれていますが、実は今も根深く存在するカースト制度により、生まれの善し悪しで職業や結婚までも細かく差別していたインドにおいては画期的な宣言であったのです。悲しいかな今の日本でも差別はあります。そんな中、生まれや身分や職業やありとあらゆる事で人を差別していた世の中で、すべての者は皆等しく平等であると宣言されたのです。


 「皆等しくこの命のままで尊い」という宣言の根拠は先にも書きましたが、この私は誰にも代わってもらえない代わることもない1人の人間だということと、もうひとつ、涅槃経(ねはんぎょう)に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」すべての生きとし生けるものはことごとく仏になる可能性を持っていると説かれていますがまさにこのことなのです。私たちは性別や生まれた環境や職業などすべての事柄に関係なく、皆誰もが仏と成れる仏性をそなえているのだからこの命のまま、あなた自身のままそのままで尊いのであります。


 また南伝仏教に釈尊の言葉を集めた「スッタニパータ」という教典がありますが、その中に「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」というお言葉が出てまいります。これも「迷い苦しみの絶えない六道を超えて、それぞれの中に宿る仏性に目覚め安楽な穏やかな仏に成る道を歩んでおくれよ」との釈尊の呼びかけなのでありましょう。どうか仏法を聴聞して阿弥陀如来の本願に出会い、心安らかで穏やかな仏と成る道を歩んでください。必ず日々の生活も幸せなものとなることでしょう。


 当寺では今年も釈尊のお誕生をお祝いする恒例の花まつりを4月8日午後1時より鳳凰殿にて厳修いたします。皆様のご参詣をお待ちしております。また併せてお子様のお誕生をお祝いする初参式(しょさんしき)も執り行います。記念品を用意してお待ちしておりますのでご予約くださいませ。合掌

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