相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『支えられ 願われつづけ 歩みたる ご恩おもいて 深く生きなん』(2017年1月 1日)

支えられ 願われつづけ 歩みたる
ご恩おもいて 深く生きなん


明けましておめでとうございます。
近いうちに正式にお知らせさせていただきますが、本日平成29年1月元日をもちまして、高島明弘 釋明晃(しやくみょうこう) 本弘寺第参代住職を継職させていただくこととなりました。それにあたりまして挨拶をさせていただこうとおもいます。


 ここ数日、修正会の法話にあたり、本弘寺開山50年記念に発行されました「本弘寺縁起」を再読しておりました。といいますのもこの1年を通して、祖師親鸞聖人が残してくださったお言葉「遠く宿縁を慶べ」(教行信証・総序)
が私の心に大きなテーマとしてあったからです。簡単に言いますと、今この地に本弘寺というお寺があること、私という者が誕生し阿弥陀如来の本願に出逢い、お念仏に出遭えたこと、これらすべて私の力ではありません。私が努力をして得たものではないのです。すべてのことは私が産まれる遙か昔よりの仏縁のお陰なのです。


 開基住職の祖父は16歳の時に最愛の母を亡くしました。母を亡くしたことで祖父は生とはなにか、死とはいったいなにか、そして人生とはなんであろうかと思い悩み、答えを仏教に求めたのです。祖父は福井県鯖江の農家の長男でした。大正末期の当時は今以上に長男が家業を継ぐのが当たり前の時代でしたが、浄土真宗が盛んな土地柄のお陰でしょう。曾祖父は祖父の出家を許されたのでした。福井の浄願寺で修行をしながら近隣の方々へ布教をする毎日を送り、ある縁で今の北朝鮮にあった大谷派の布教所へ責任者として出向き、日本人や多くの現地の方々へ布教したそうです。その地で終戦を迎え今の韓国に逃げる途中で1歳の長女を亡くします。


 命からがら帰国できた祖父は大谷派の札幌別院、帯広別院と奉職し、今の東本願寺派本山である当時の東京別院のアドバイスの下、この相模原という地に縁をいただき昭和29年11月21日43歳の時に本弘寺の礎を築いてくださったのです。


 相模原に来てからも祖父の布教教化は緩むことを知らず益々盛んになっていきました。北海道で生まれた私の母を含め4女1男の子宝にも恵まれましたが、昭和38年に跡取りとして期待していた長男を、あくる39年には4女を失います。祖父母の悲しみ、幼くして亡くなっていった叔父叔母を思うと今でも涙が出ます。


 しかし、のちに祖父が「ぼく(長男)が亡くなったお陰でこうして立派な息子に出遭えた」と慶ばれたそうですが、私の父と母が結婚をすることとなり私がこの世に産まれることができました。悲しいことをあげれば大切な人との別れがとても多かった祖父です。それでも阿弥陀如来の本願に出会い、お念仏の大道を迷うことなく歩み続け、人にも説きつづけた祖父はいつでも笑顔で嬉しそうにみんなで仲良くお浄土へ参らせてもらおうと話してくださっておりました。


 その精神と信心は私の父も大切にし、自信教人信(じしんきょうにんしん)のお言葉通り布教教化に尽力をしてきてくださったお陰で今の本弘寺があります。先々代も先代もただただ阿弥陀如来の本願をよろこび、そのみ教えを多くの方々に伝えてきた人です。


 今、私のあるを思うについて、曾祖父母、祖父母、父母は当然大きな影響をくださいましたが、それだけではなく兄弟や家族、大勢のご門徒の皆様のお力添え計り知れない仏縁を本当に大きなものと感じています。まさに遠く宿縁を慶ばせていただいております。


 本弘寺の住職の使命は多くの方々への布教教化。徹底した自信教人信なのだと本弘寺縁起を読み直していっそう目標がはっきりし前を向けた思いです。まだまだ書きたいことはあるのですが字数の制約でたいしたことは書けませんでした。これからも今まで以上に皆様と仏法聴聞に励んで参りたいと思います。合掌

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