相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『念仏は 欲望を満たしてはくれないが 生きる意義と 生きる力を与えてくれる』(2016年12月 1日)

念仏は 欲望を満たしてはくれないが
生きる意義と 生きる力を与えてくれる


 私が子供の頃、家にはテレビはありません。冷蔵庫もありません。洗濯機もありませんでした。電話や冷暖房器具、車なんかもありませんでした。
中学生、高校生になった頃、少しずつそうした物が世に出るようになり「三種の神器」なるものが言われるようになりました。本来の三種の神器は天皇の位を示すものとして代々の天皇に伝えられた宝物で鏡、剣、玉の三種でしたが、その頃は生活の宝物としてテレビ、冷蔵庫、洗濯機を三種の神器としてもてはやされました。しかし今ではどこの家庭にもテレビ、冷蔵庫、洗濯機があり、エアコンや車もどこの家庭にも普及しており死語となっているようです。


 こんなに世の中は便利になり、楽になり、生活水準は向上しているので、さぞ人々は充実した喜びの生活をされているかと思うと決してそうではありません。欲望はきりがないもので、老若男女誰しもが給料が少ない、税金が高い、あれが足りない、これが足りないと不平不満を募らせています。


 以前、寺の掲示板に「思いどおりにしたい その心が苦しみを生む」と書いたことがありました。
洗濯機がなかったら・・・たらいで洗濯板を使っていた時を思えばどうなのか。
テレビやエアコン、車がなかったら・・・無い時代はどうしていたのか。不便を感じていたか。
そのように思えれば良いのですが、そうは思えず文句を言うのです。


 釈尊は「足るを知らざる者は、富めりといえど貧し。足るを知る者は、貧しといえど富めり。」とおっしゃいました。
なるほどその通りだと頭ではわかるのですが、現実私の問題となると足るを知らず不平不満の心が起こるのです。恥ずかしいことです。しかし親鸞聖人は足るを知らない者は、欲望を抑えられない者は駄目な人間だとはおっしゃいませんでした。そうした人間を凡夫とおっしゃったのです。
「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)と凡夫の姿を言い表されました。
確かにその通りでまさに煩悩具足の凡夫の私ではありますが、その私が順境の時は良いのです。経済的に恵まれ、社会的地位も得て、家族も健康で円満なときは幸せを感じるでしょうが、ひとつ歯車が狂うとどうなるのでしょうか。


 お金や権力によって泣かねばならない人生ではないでしょうか。いじめや過労で自殺に追い込まれたり、突然不治の病に倒れ絶望に陥ったり、会社が倒産し失業に追いやれられ、家族が路頭に迷ったり、友と仲違いをし眠れぬ思いをしたり、様々な煩悶苦悩に陥り生きる希望を失うことがあります。そんなときどうすればよいのでしょう。


 宗教の使命は人を迷い苦しみから救うことであります。問題はどう救うか、どう救われるのかであります。
親鸞聖人は阿弥陀如来の願いは老若男女、善人悪人そんな区別などまったく問題にせず、すべての人をなんとしても迷い苦しみから救いたいとの思いで五劫という永い時間御苦労遊ばされ、念仏申す者を必ず救うと誓われたそれが阿弥陀如来の本願ですとお示しくだされました。
このことは私に力があろうと無かろうと、頭が良かろうが悪かろうが、足るを知ろうと知るまいと、私は私のままで背伸びすることも卑下することもなく阿弥陀如来の本願を深く信じ念仏申す身にさせていただくことが救われる道であると言うことでしょう。


 親鸞聖人の教えを深く深く味わわれた清沢満之先生は「私の信念は如来を信じることである。私が種々の刺激やら事情のために煩悶苦悩する場合にこの信念が心に現れるときは、私は忽ちにして安楽と平穏とを得るようになる」(要約)と述べられました。深く味わいたいものです。
同じく先達の曽我量深先生は「人生の苦しみは すべて如来の激励である」とおっしゃいました。私はこのお言葉でどれほど救われたかわかりません。


 私はいよいよ仏法聴聞の中に阿弥陀如来の本願を深く正しく味わい念仏を悦ぶ身になりたいものです。私の人生、種々ありました。眠れぬ夜も、死にたくなる日もありましたが、如来の本願に出会えた今、生きる意義と生きる力を念仏の中に味わっております。合掌

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