人間は必ず死を迎える
死んだらどうなる
これが人生の一大事
同年代の友人3人と、「今後の人生どう歩むのか?」「いつまで生きられるかわからないし、安心して生きるにはどのくらいのお金が必要だろうか?」と語り合っていたとき、1人の友人が「ところで人間死んだらどうなるの?あの世なんて本当にあるの?」と問われた。するともう1人の友人が「人間は死んだら火葬場で焼かれて骨だけ残り、後は何もないよ。」と言われた。
私は「あなた方は親しかった人が亡くなると、ご冥福をお祈りします。とお悔やみの言葉を口にされませんか?」と言うと、確かにそう言いますねと言われる。冥福とはあの世の幸せを祈るという意味ですよ。あの世があると思うからそう言うのでしょう。」というと、あぁそうかと2人とも口をそろえて言われ黙ってしまわれました。
その後、寺に戻り"あなたの声を聞かせてください"の質問箱を開けますと「浄土と冥土の違いを教えてください」との質問が寄せられていました。
冥は"暗い""闇"という意味で、冥土は死者の魂がゆくあの世。すなわち闇の世なのです。時代劇を見ていますと「冥土の土産に聞かせてやろう」という台詞をよく耳にしますが、あの世界です。
一方浄土の浄は"清い""汚れがない"という意味で、浄土は一切の迷い悩みから離れた清浄なところで、仏が住まわれるところなのです。仏は仏説阿弥陀経に説かれているように無数においでになるので、お浄土も無数にあるのです。ひとつではないのです。阿弥陀如来が今現在説法(今まさに説法をされている)極楽浄土もお浄土のひとつなのです。ですから浄土と冥土はまったく異なるのです。
よく人は、どなたかお亡くなりになりますと「ご冥福をお祈りします。」とお悔やみの言葉を申しますが、こんな失礼な言葉はないと思います。なぜ失礼なのかと申しますと、ご冥福を祈るとは先に記したように、闇のあの世の幸せを祈ると言うことだからです。
先代住職や前坊守、たくさんの有縁の方々など私の大切な人は皆、お念仏を悦ばれた方々ですから、冥土に行かれたのではなく、阿弥陀如来のまします極楽浄土へ往生遊ばされたのです。ですからご冥福をお祈りしますなんて言われますと違和感を感じますし、失礼だと思うのです。
仏教は人間が仏になるための教えであります。親鸞聖人は浄土和讃に「念仏成仏これ真宗」とおっしゃいました。阿弥陀如来より賜ったお念仏によって仏に成る。これが真実の教えですとおっしゃったのであります。
また仏教には聖道門と浄土門に分かれます。聖道門は自力で難行苦行を行い、煩悩を断ち、この世で仏になる方法です。
一方浄土門は阿弥陀如来の本願、他力によって浄土に往生させていただき仏に成るのです。
人はこの世で仏に成りたいと思われるでしょうが、私のように難行苦行さえまっとうできず、煩悩を断ちきることのできない者は、この世においては阿弥陀如来の迷い悩む者を必ず救うと誓われた本願により、念仏を悦ぶ身とさせていただき、浄土往生が保証された安心の心に成れるのであります。このことを正定聚の位(しょうじょうじゅのくらい)につくと申すのであります。
親鸞聖人は歎異抄の第九条に「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」と示されました。"かの土へはまいるべきなり"とは極楽浄土へ往生させていただけるという意味であります。私も仏法聴聞の中にしっかりとお念仏を悦ぶ身にさせていただき正定聚の位につかせていただきたいものです。合掌