相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『人間の値打ちは学歴や肩書きではない その人の考え方 生き方によって決まる』(2016年7月 1日)

人間の値打ちは学歴や肩書きではない
その人の考え方 生き方によって決まる


 お釈迦様はご誕生あそばされますと、七歩歩まれ、右手で天を左手で地を指さし、「天上天下唯我独尊」と叫ばれたと言われます。このことはこの世に存在する生きとし生けるすべてのものには仏性が具わっているので、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の迷いの六道を超えて悟りの境地に入ることのできる尊い存在ですと言うことでしょう。


 日本に仏教を取り入れ、仏教精神で政治を司った聖徳太子は「我必ずしも賢に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に凡夫の身。」とおっしゃいました。
凡夫について親鸞聖人は「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(一念多念文意)とおっしゃいました。
このことは、私という存在は自分では気づかない中に尊い仏性を具えた凡夫の身であると言うことだと思います。


 人は仏性を具えた凡夫の身ではありますが、人の値打ちにはピンからキリまであると思います。人間としてのピンキリではなく、人間としての生き様、生き方にピンキリの違いがあるのでしょう。
人間の値打ちをその人の生まれや、学歴や、肩書きや、財産などによって、その人の値打ちを計る傾向がありますがそうではないのです。そうしたもので人間の値打ちを決めてはいけないのです。
人間の値打ちはその人の生き方、考え方で、敬われるか、疎まれるか、必要とされるか、邪魔にされるかなどの違いが出てくるのです。


 舛添さんがやっと都知事を辞任されました。舛添さんは記者や都議会議員の質問に対して、どこまでもその態度は傲慢であり、答弁する度に無理があるのか、嘘があるのか、都民に納得を与えられないどころか益々反感を買うことになり、挙げ句には給料は要らないから都知事に留まりたいと涙して懇願しましたが受け入れられず辞任に追い込まれました。
飛ぶ鳥後を濁さずと申しますが、舛添さんは都民に多大な迷惑と損害を与えたことを詫びることもなく都庁を去られたとのことです。舛添さんは高い学歴や立派な肩書きを手にされたのに、人間の値打ちは恥ずかしい限りであります。


 人間は口はひとつですが、耳はふたつありますし、目もふたつあります。このことは、話すことの倍は聞きなさいと言うことなのでしょう。話すことはしっかり見てから話しなさいと言うことだと思います。
ふたつの耳で何をどう聞くのでしょうか。ふたつの目で何をどう見るのでしょうか。
自分の先入観で人の意見を聞いても正しく聞くことはできないのです。好きな人の意見は聞きやすいが、嫌いな人の意見はたとえ正しくとも受け入れ難いのではないでしょうか。
自分の先入観で見れば物事は正しく見えないのです。青い眼鏡で見れば青く見えるし、赤い眼鏡で見れば赤く見えるのではないでしょうか。


 やはり何事も仏法に聞いていく、何事も仏法を物差しに見ていくことが大切だと思います。仏法に聞いていくと、なんとも私は自己中心の我執の塊であったと恥ずかしい自分に気づかされると思うのです。
今まで俺我、俺がと力んでいたが、そうではなかった、たくさんの方々のお力添えでしたとご恩の世界が、お陰様の世界が見えてくると思うのです。
恥ずかしい自分に気付き、ご恩とお陰様の世界が見えてきますと、不思議とその人の値打ちが評価され、慕われ、敬われ、必要とされる人生が開かれてくると思うのであります。合掌

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