相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『人は 恵まれた生活に 安閑としていると 人間として生まれた意義を 求めようとはしない』(2016年5月 1日)

人は 恵まれた生活に 安閑としていると
人間として生まれた意義を 求めようとはしない


 温泉宿の浴場である方が突然意識を失い倒れられた。仲間が二人一緒でしたので、一人が身体を抱きかかえ、一人が救急車を呼びに行き病院に運ばれたので事なきを得たのです。その方が退院をされて「何が無くても健康が一番ですね。」と言われました。
病気や怪我をして苦しんだことのある人は誰しもが健康が一番幸せとよく言われます。今まで頼りにしていた金も権力も地位も何の力にもならないことを実感するからでしょう。


 ゴルフが生き甲斐だと言われる80才の元気な人が「俺はあと5年はゴルフを元気にしたい。」と言われる。私が90才でもゴルフをしている方がいますよと励ましながら、しかし病は突然襲ってくるのでそうなったらどうしますか?と尋ねると、ゴルフもできず寝たっきりになるならば死んだ方がましだと言われる。
私たちはいつまでも健康でいたい。元気にうまいものが食べたい。旅行に行きたい。好きな趣味をいつまでも続けたいと思うものですが、そうした望みが満たされないときが、かなわないときが必ず来るのです。そのことがわかっていながら実際にそうなると心に不平不満をいだき、なんで俺がこんな事になるのだと苦しみ、絶望に陥るようです。


 不治の病になったり、怪我をして身体の自由を失い、寝たきりになるともう人生に悦びはないのでしょうか?
結論を先に言いますと、如来の本願に出会い、念仏を悦ぶ身にさせていただきますと、健康な人にはなんでもないと思われることも、当たり前としか思わないことも、身体の自由を失いながらも念仏のある生活を営む人には、ささやかな小さなことでもひとつひとつが嬉しく悦びを感ずるようです。


 当寺の日曜礼拝に10数年欠かさず参詣くださる森山さんは10回ものお医者さんに手の施しようがないと言われた大病を乗り越えられ、不自由な身体ながらも3キロの道のりをゆっくりゆっくり歩いて参詣くださるのです。森山さんは一人生活ですがいつも仏様と一緒ですと明るく過ごされ、自分の気持ちを詩や短歌に表されるのです。


「きさらぎや 仏と二人 朝食かな」
「本弘寺 揺れるローソク 吾が心」
「ほほえみや 百面相の 木仏かな」
「ありがたき 和尚問答 吾恥じる」
「吾愚か 堂々回り 仏道」


いかがでしょうか。仏と共に明るく強く生きる森山さんの心がよく表れていると思うのです。森山さんは「死ぬる身が今日も生かされました。有り難い」とよくおっしゃいます。どれだけ社会的に高い立場にいようと、どれだけ財産家であろうと、どれだけ才能があろうと、どれだけ健康を自負している人でも死を逃れることはできないのです。


 心安らかに穏やかに自分の人生を納得して最後を迎えるには、社会的プライドも大きな財産も希なる才能も頑強な身体もなんの役にも立ちません。役に立たないどころか大きな妨げになることもあるようです。それらにこだわり、未練が残るからでしょう。
心安らかに穏やかに自分の人生を納得するには、やはり仏法をよく聞かせていただき、如来の本願を信じ、念仏申す身にさせていただくことです。
清沢満之先生は「私が信ずるとはどんなことか、まずその効能を第一に申せばこれを信ずると云うことには、私の煩悶苦悩が払い去らるる效能がある。この信念が心に現れ来る時は、私はたちまちにして安楽と平穏とを得る様になる。私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。私はこの如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ。私はこの如来を信ぜずしては居られない。」とおっしゃいました。深く深く味わいたいお言葉です。合掌

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