相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『大いなる 願いのなかに 賜りし 無量の寿 深く味わん』(2016年1月 1日)

大いなる 願いのなかに 賜りし
無量の寿(いのち) 深く味わん


 人間として現に生活をしていますと、よくぞ人間として生まれることができたものだという感動を覚えませんが、よくよく考えてみれば、私は両親の大きな願いの中に生まれることができたのです。その両親も祖父祖母の願いを受けて生まれ、その祖父祖母もその親の願いの中に生き抜かれたのです。
そうしてみると私は綿々と受け継がれた無量の先祖の方々の願いを一身に引き継いでいるのです。太陽の恩恵なくして1日も生きられないし、空気なくしても生きられず、水なくしても生きることができないという自然界と一体となったそんな尊いいのちを賜っているのです。


 そんな尊いいのちをどう生きているでしょうか?恥じることなく生きているでしょうか?どうでも良いことにああでもない。こうでもないと争い、ささやかなことに損した得したと目くじらを立ててはいないでしょうか?何かにつけてあれが足りない。これが足りない。社会が悪い。政治が悪いと不平不満の心を懐いたり、愚癡をこぼす生活を送っていたとすれば勿体ない限りであります。


 釈尊は
 「足るを知らざるものは 富めりといえど貧し
  足るを知るものは 貧しといえど富めり。」とおっしゃいました。
足るを知る人はむさぼり、怒り、不満の心が和らぎ、幸せであるとおっしゃるのですが、どうしたら足るを知る心になれるのでしょうか?
新年を迎えますと、多くの方が有名な神社仏閣に初詣に出かけ、商売繁盛、家内安全、除災招福などを欲深く祈りますが、そうした心では足るを知ることはできないと思います。やはり足るを知るには仏法を聞かせていただくことです。仏法を聞かせていただき、自分の本質に気づかせていただくことです。


 自分は偉い、賢いと思い、相手を低く見ていたが、そうではなかった。共に凡夫でありました。他人様や社会に迷惑をかけたことがないと自負していたが、迷惑をかけずに生きられない私でした。他人が見ていなければ何をするか分からない私でした。世の為、人の為、家族の為に頑張ってきたんだと威張っていたが、助けられ、我慢され、許され通しの私でしたと自分の本当の姿が知らされますと、お陰様の世界が、足るを知る世界が開かれてくるのであります。


 しかし病気で苦しんだり、会社が倒産に追い込まれたり、人間関係がこじれたり、種々な苦境に立たされますと、とても足るを知り、悦ぶことはできないと思います。仏教ではこの世を娑婆と申しますが、娑婆とはインドの梵語のサハーを音写したもので、意訳しますと忍土(にんど)になります。忍土とは苦しみに耐えて生きねばならないところということです。


 曽我量深という先生が「人生の苦しみはすべて如来の激励である」とおっしゃいました。晴れの日ばかりでは人間は高慢になります。雨の日も、雪の日も、嵐の日もあるのです。私が苦境に立たされているとき、如来は「挫けるなよ。負けるなよ。その苦しみが真の幸せをつかむための試練だぞ」と激励してくださっているということです。


 無量寿経というお経の中に「忍力成就して 衆苦をはからず 小欲知足にして 染恚癡なし」というお言葉があります。他人から侮辱されたり、馬鹿にされたり、迫害を受けたり、嫌がらせを受けても良く耐え忍んで、どんな苦しみにも負けず何事にも足るを知る生活には貪欲、瞋恚、愚癡の煩悩の心が静まり楽になれると言うことでありましょう。


 人は誰しもが幸せを求めています。本当の幸せを味わうには仏法聴聞しかないのです。仏法を知らないと種々な苦しみ悩みにぶつかったとき、なぜ私だけがこうして苦しむのだと落ち込み、何かにつけ不平不満の心が起こるものです。しかし仏法をいただいていますと、人生に苦しみは避けられないことも、その苦しみに耐える大切さも知っています。そして私のいのちは単なるいのちではありません。大いなる願いを受けて賜った尊い無量のいのちであることに気づいていますので、何はなくとも今のままで充分ですと人生の悦びと幸せを深く味わえるのであります。本年も仏法聴聞に勤しみたく思います。合掌

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