相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『智慧の眼で 正しく見れば お陰様が見えてくる』(2015年10月 1日)

智慧の眼で 正しく見れば
お陰様が見えてくる


 先日、友人が左手にギプスをして痛々そうにしていたので、どうしましたかと尋ねますと、乱暴に車を運転をする馬鹿者が急に十字路に飛び出してきたので、自転車に乗っていた私はとっさに避けたのですが、コンクリートの電柱に自転車をぶつけてしまい、左手を骨折してしまったのですと言われる。車の運転手は誰だか分からないし、治療費はかかるし、痛い思いをして踏んだり蹴ったりだよ。骨折してすぐの頃は利き手の右手でなくて良かったと思っていたけど、左手が使えないと何をするにも上手くできなくて、不自由この上ないんだよ。しみじみ利き手でもない左手の有り難さが分かったよ。と言われた。


 私もなるほどと思って、今日1日何をするのも右手だけで行動しようと試みたのです。顔を洗うのも右手だけでは上手く洗えず困りました。風呂に入り背中を洗おうとしましたが右手だけではタオルを使えません。タオルを濯ごうとしましたが右手だけではどうにもなりません。読経の時、経本を戴くにも右手だけではできませんでした。原稿を書くのも右手だけでは用紙を押さえられず大変苦労しました。3度の食事も右手だけでは箸は使えますがお椀を持ったりお皿を支えたりできず、せっかくのお料理が美味しくいただけないのです。車の運転も右手だけでは上手にハンドルを回すことができず危ない思いをしました。友人が利き手でもない左手の有り難さが分かったと言われましたが、右利きの私が何もかも上手くできたのは左手のお陰だったのですね。


 私が今日も元気に働けるのも家族やたくさんの方々のお陰でした。私一人ではどうにもならなかったのです。右利きを誇っているときは苦しみますが、左手のお陰と謙虚になれたとき楽になれるのです。人生も俺が何事にも耐えて負けじと頑張っているから家族が安らかに暮らせるのだと偉ぶるときは苦しみますが、俺がではない。みんなのお陰と謙虚になり、自分一人では何もできない愚か者でしたと愚になれたとき、楽な人生が開かれる思いであります。


 禅宗の僧である良寛さんは


「愚かなる 身こそなかなか うれしけれ
       弥陀の誓ひに あふと思えば」


と詠われ、この歌もたしか良寛さんの歌だと思いますが


「ひとつでも 良いところがあったなら 迷ったものを
              まるでなくて わしが幸せ」


と謙虚に愚に気づかされて開かれた悦びと幸せの心境を詠われました。心して味わいたいものです。合掌

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