相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『盆迎へ 母を偲んで 合わす手に 聞法せよの あつき催促』(2015年8月 1日)

盆迎へ 母を偲んで 合わす手に
聞法せよの あつき催促


 先日久しぶりにAさんが訪ねてこられ、住職と少しお話をしたいと申され「私がまだ小学生の頃、小さな呉服店を経営していた父が脳溢血で亡くなり、母は父の亡き後、朝早くから夜遅くまで仕入れから配達まで小さな身体にむち打って店の経営に励み、私と妹を大学にまで行かせてくれたのです。母はそうした忙しい中にも寺の法要には欠かさずお詣りをされる熱心な人でした。その母がよく私たちに言われたことは、不平、不満の心が起きたらお念仏申せよ。お念仏を忘れるでないぞと言うことでした。
私は生活に追われ自分のことしか考えず、苦労して私たちを育ててくれた母のことをすっかり忘れていました。お念仏も忘れていました。
昨晩すっかり忘れていた母が夢の中で元気にしているか?仏法を聞かせてもらっているかと問われるのです。
私はあぁ申し訳なかったと懺悔の心で今日、墓参りをしました。ふと気がつくと自然と手が合わされナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏が口からこぼれていました。不思議と和やかな安らぎの心になっていたのです。
母は本当に尊いなぁ有り難いなぁと思いました。母は私が母のことを忘れていても、母は一時も忘れず私の幸せを願い続けてくれているのですね。」と話してくださいました。


 私はAさんに良い話を聞かせていただきました。本当に親は尊いですね。お母さんの願いを忘れずに聞法に励んでくださいとお願いをして別れたあと、私の口から拙い歌がこぼれました。


盆迎へ 母を偲んで 合わす手に
聞法せよの あつき催促


 今年もお盆を迎えます。お盆のいわれは釈尊の十大弟子のお一人目連尊者と餓鬼道に落ちた目連尊者の母にまつわる話ですが、私はお盆のいわれの中に大切なことがふたつあると思うのです。
ひとつには、目連尊者が自分は尊者、尊者と敬われ良い気になっていたが、自分こそ母を餓鬼道に落とし込んだ張本人だと気づき懺悔されたように、共に生活していると身近なるが故に気づかなかったこと、当然のことと思っていたことがとんでもないことであった。深く重いご恩があったのでしたとその恩に気づくことが大切であると言うこと。
ふたつには目連尊者が餓鬼道に落ちた母を救うのに、母に物を捧げるのではなく、十方の僧に供養せよと釈尊に教えられ、他に供養することによって母が救われたと言うこと。自分のことに奢るのではなく他人に奢る心が大切であると言うことです。このことは布施の行が大切であると言うことです。


 布施というと今日、お坊さんに喜捨するお金のことと思われがちですが、布施とは私の清浄な心でお金に限らず物や法や自分の出来ることを人にさせていただくことなのです。仏教では布施には三つの物が清浄でなくては布施にならないと教えています。このことを三輪清浄と申しますがその三つとは


1:施した者
2:施された者
3:施物


のことです。
1の施した者は、受けてくださった人に私に功徳を積ませてくださった。有り難うという心でなくてはいけないのです。
こうしてやったという恩着せがましい心では布施にはならないのです。

2の施された者は、結構な物をお与えくだされた。有り難うと心から喜ぶ心でなくてはなりません。
有り難うという心が無かったり、あるいは結構な物をいただいたからあの人には頭が上がらない。あの人の言うことには便宜を与えようというような心が起これば布施にはならないのです。

3の施物とは、施す物が曰くのある汚れた物ではこれも布施にはならないと言うことです。


 今年もお盆を迎えますが、親鸞聖人の教えをいただく私たち浄土真宗の門徒としては、私たちの大切な亡き人々はお念仏によってお浄土に往生されたのであり、餓鬼道に落ちたのではありませんので施餓鬼法要の必要を感じませんが、念仏者としては仏法聴聞の中に懺悔の心で亡き人の深く大きな恩恵を思い、まことの清浄な心で布施の行を行いたいものであります。合掌

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