自分の都合のよい様にしたい
その心が苦しみをうむ
人生には選ぶことが出来ることと出来ないことがあります。仕事とか結婚とか趣味は選ぶことが出来るでしょうが、親とか性別、国籍などは選ぶことが出来ません。人間としての誕生も自分の意思ではないでしょう。しかし不可称、不可説、不可思議の中に賜った尊い命であり、どれだけ感動しても感動しきれないものを感じます。そんな尊い不可思議な命を賜ったのですから人間として忘れてならないものがあります。
ひとつには人間は支えられて生かされている存在であり、親子、兄弟、夫婦、友人、師弟等の間柄に生かされている存在なのです。
ふたつには人間は生まれながらにして人間ではないということです。ある学者が猿は生まれながらにして猿だが、人間は生まれながらにして人間ではないとおっしゃいました。確かに狼に育てられれば狼になってしまうのです。
みっつには偶然中の偶然の中に賜った命は必然中の必然の中に死んでいく命であります。
以上のことが自覚されますと、どう生きる。何の為に生きるのだと言うことが問わずにおれないのではないでしょうか。
「下駄も仏も木のかけら」という言葉を聞いたことがありますが、このことは下駄も仏像も木のかけらと言えば木のかけらですから、仏像なんて尊いものではないと言うことではないのです。1本の木でも刻み方によっては人の足に踏まれる下駄となり、刻み方によっては人に拝まれる仏様になると言うことです。刻み方によってこうも変わってくるのです。人間も心がけ次第でどのようにもなると言うことであります。
何の為に生きると決まった人はいないのです。では生きるとはどういうことでしょうか。何かを経験していると言うことでしょう。経験の内容は様々でありますが、いかなる経験も分析すれば、私が目で何かを見ている。耳で何かを聞いている。鼻で何かを嗅いでいる。舌で何かを味わっている。身体で何かを感じている。そして意(心)で何かを思っているという、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識を出ることはないのです。問題はこの意識です。物事を正しく意識できれば良いのですが、自分の都合で良いとか悪いとか思ってはいないでしょうか。「自分の都合のよい様にしたい」その心が苦しみ、悩みを生むのであります。
悩み、苦しみの原因は外からではなく、自分の内にある煩悩によるのであります、この道理が分からないと自分の都合をかなえる為に占いや、お祓い、お札(家内安全、商売繁盛、交通安全等)方位方角、六曜(先勝、友引、先負、佛滅、大安、赤口)等に頼ると言うことになるのでしょう。そしていよいよ悩み、苦しみを深めることとなるのであります。物事は全て因(直接の原因)+縁(間接の条件)=果という因縁果の法則を離れることはないのであります。しかし悩み、苦しむことは大切なことでもあります。曽我量深先生が「人生の苦しみは全て如来の激励である」とおっしゃいましたが深く味わいたいものです。
苦しみ悩むから人生迷うのです。迷うから何の為に生きるのだと言うことが問われるのでしょう。仏法に耳を傾けようという心が起こるのでしょう。仏法に耳を傾けますと、いたずらに悩み、苦しみから逃げよとするのではなく、苦悩の問題を素直に引き受け、深く自分を見つめる中に、そうでした。そうでした。あの苦しみは私を真実の世界に目を開かせるための如来様の激励であったと頷けるのであります。
頷けたからといって悩み、苦しみがなくなるわけではありませんが、悩み、苦しみを抱えながらも、如来様がいつでもいかなる時も一緒にいてくださるという安心感が明るく生き生きとした、悔いのない歩みに導いてくださるのであります。合掌