相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『受け難き人身を賜り 聞き難き仏法を賜る こんな悦びはない』(2015年5月 1日)

受け難き人身を賜り
聞き難き仏法を賜る
こんな悦びはない


 以前は彼岸会、盆会、報恩講には参詣人で本堂があふれたものですが、年々参詣人が少なくなっています。法要の案内も工夫したり、自分なりに力を入れていますが力足りずで効果が出ません。私の努力不足の他にも感ずることがあります。


 ひとつには念仏の相続が行われていないということです。熱心に聴聞くださったあの人も、あの人もたくさんの方々が亡くなられました。そうした仏法聞法に励まれた方々の財産の相続は争ってでも受けるのですが、聞法の相続、念仏の相続がなされないのです。


 ふたつには科学万能の時代を迎えその恩恵は大変大きなものがあり、生活様式がすっかり変わってしまいました。科学に責任があるのではありませんが、科学の進歩は宗教に無関心、宗教を無視する傾向に進んでいるようで宗教の本質を見失わせてしまった感があり、現代の人が宗教に求めるのは葬儀、法事等の儀式のみを求め、人生の生き甲斐を宗教に求めようとしないようです。寺も反省しなければならないと思います。


 現実の問題を考えても、全国の有名な神社仏閣にたくさんの方が出かけますが、お参りをするのなら良いのですが歴史的価値の観光なのです。寺の方もそれを良いことに拝観料を取る観光寺院に成っているし、一般末寺においては葬儀、法事だけを行う儀式寺院となり、あるいは墓を守る墓守寺院の姿ではないでしょうか。
本来の寺の務めは仏の教えを説き、仏法を、人生を語り合う場が寺の有るべき姿だと思いますので、何とか本来の姿を取り戻したく会う人、会う人に仏法聴聞を勧めますが、分かりましたと言いながら多くの人は葬式、法事以外に寺に足を向けようとしないのです。


 体調を崩し入院して5日で亡くなった酒飲みの友人のことを思い出しました。彼が元気な頃、時には気楽に日曜礼拝に来たらと勧めたことが何度か有りましたが、彼はその都度
仏法を聞かなくとも仕事に何も差し支えないよ。
仏法を聞かなくとも社会生活に支障はないよ。
仏法を聞かなくとも家族揃って仲良く楽しく生活が出来るし、時には旅行にも行けるし、こうして毎晩酒も飲める。仏法なんか聞く必要ないよ。

と言っていましたが、入院先に見舞いに顔を出したとき、彼は青ざめた顔で死んだらどうなるのかな・・・俺、寂しい。今度寺に行くよ。といわれた言葉が未だに耳に残っているのです。


 エリートと呼ばれる人や、学歴を誇る人、社会的地位の高い人に限って科学的に生きれば何事も解決できると思っておられる傾向が強いようで、坊主の時代遅れの古くさい話など聞けるかと思っているように感じます。確かに物質的な諸問題は科学で解決できると思いますが、人生には科学で踏み込めない世界が有ります。人の心の問題には科学は入り込めないのです。
深い深い縁で結ばれた親子の間でも、心苦しみ勘当しなければならないこともあるのです。駆け落ちまでして結婚した夫婦にも亀裂が生じ眠れぬこともあるのです。元気だけが取り柄と思っていても不治の病に泣くこともあるのです。自分で自分のことがどうにもならなくなると仏法なんか必要ないと思っていた人も途端に仏にすがろうとするのです。


 確かに宗教は人を幸せにすることが使命ですが、自分の困っている問題を自分の都合の良いように祈るのは正しい宗教を求める姿とは言えないのです。
自分から願わなくとも、頼まなくとも仏様の方から悩み、迷い、苦しむ私をなんとしても助けたい、救いたいと願い続けてくださっておられるのが仏様なのです。その仏様の心、仏様の願いを聞いていくことが仏法聴聞の姿なのです。
仏様の心、仏様の願いに気づかせていただくことが信心であり、信心は自分の努力ではなく仏様よりの賜りものですから信心をいただくと申すのであります。信心をいただきますと私たちの悩み、迷い、苦しむ心の闇を仏様の智慧の光ではらしていただけるのです。そこに心開かれた、心安らぐ世界が味わえるのであります。こんな悦びはありません。合掌

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