相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『互いに凡夫の身 助け合い 励まし合い 喜び合う生活が 出来たらいいなぁ』(2015年3月 1日)

互いに凡夫の身 助け合い 励まし合い
喜び合う生活が 出来たらいいなぁ


 人は誰でも病気を患いたくない。健康でいたい。貧乏はしたくない。豊かでありたい。みんなと仲良く幸福に生きたいと願っています。しかし、


釈尊は
人生は苦なりとおっしゃいましたし、人生は楽だといわれた聖人君子は誰かいたのでしょうか?やはり悩み苦しみから逃れることの出来る人生はないのでしょう。なぜでしょうか?人は誰からもよく思われたい。偉い人だ。賢い人だ。利口な人だ。良い人だと思われたいのです。
あいつは悪いやつだ。駄目なやつだなんて思われたくないし、まして馬鹿にされたくはないのです。
このように私たちは何事も善だ。悪だ。良いこと。悪いこと。強い。弱いということに執着した生活をしているからではないでしょうか。
そうした生き方は疲れますし、ストレスがたまり、鬱病にもなりかねません。もっと疲れない、楽な、安らぎの生き方はないのでしょうか。私は仏の教えが解決してくださるし仏法を正しく聞かせていただき、凡夫の自覚に立つことが大切だと思うのです。


親鸞聖人は
「凡夫」ということは無明の煩悩が私たちの身に頭のてっぺんから足のつま先までビッシリ詰まっているので欲も多いし、ちょっとしたことで怒りの炎を燃やし、気に入らないとすぐに腹を立て、人の幸せな姿を見ると嫉み心や妬み心が盛んに常に起こり、死ぬまで止めることも無くすことも出来ないのですとおっしゃいました。
それなのにそうした凡夫の自覚がないから、俺は正しい。俺は善だと思い込むために苦しみ、悩むことになると思うのです。


聖徳太子も
「我必ずしも賢にあらず。彼必ずしも愚にあらず共に凡夫の身。」とおっしゃいました。


釈尊が
生きとし生けるものは皆誰でも仏にまでなれる尊い存在なのですと説かれる仏の教えをいただくと、こうした心になれるのでしょう。
凡夫でしたという自覚に頷かされますと、今までは俺が頑張っているから。俺が許しているから。俺が助けているから。俺が俺がと力んでいたが、まったく逆でありました。多くの人から許され、我慢され、助けられ、生かされ続けていた私でしたと思い知らされ、私の先入観で、私のその時その時の気分で、あの人は良い人だ。立派な人だ。あいつは悪いやつだ。駄目なやつだと決めつけていたことが申し訳ない思いに駆られます。愚かな考えでありました。恥ずかしい限りですと反省させられるのです。


 このような話を友人と酒を交わしながらしましたら、友が「何か目が覚めた思いがするよ。私は時々腹の虫の居所が悪いとき、女房や子供たちに、俺が辛い仕事にも耐えて、嫌な人とも我慢して付き合い、頑張っているからお前たちは楽に何の心配も無く生活が出来るのだ。お前たちは少しも俺の苦労が分かっていないと文句を言うことがあったが、そうではなかった。家族のお陰で私も仕事に精を出すことが出来たのですね。今日は良い話を聞かせてもらった。」と喜んでくれました。私も嬉しく感じました。
これからも仏法を聞かせていただき、互いに皆凡夫の身であります。助け合い、励まし合い、慰め合い、一日一日をしっかりと歩みたいものです。そこには喜び合う生活があると思うのです。合掌

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