相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『助けられ 我慢され 許され続けて ナンマンダブツ』(2014年12月 1日)

助けられ
我慢され
許され続けて
ナンマンダブツ


 当寺の日曜礼拝、法要に欠かさず一番前列でお参りしてくださったAさんがお浄土に還られ今月三回忌法要を迎えます。懐かしくAさんを偲び仏書を紐解いていましたら中にAさんからのお手紙が挟まっていました。15年前のお手紙です。そのお手紙に
「私が今考えておりますことは私たちが行住坐臥(ぎょうじゅうざが)毎日毎日称えておりますお念仏はいったい如何なる意味を持っているのであろうか?ということです。具体的にいったい私たちはどんな時にお念仏を称えているのでしょうか?」
そしてAさんは私の場合はと言って次のことを述べておられます。


1)本弘寺お御堂の日曜礼拝のお勤めの時にナンマンダブツ・ナンマンダブツ
2)ご先祖様の法事等でのナンマンダブツ・ナンマンダブツ
3)早朝ウォーキングや家の窓に差し込む真っ赤な朝日に思わず両手を合わせてナンマンダブツ・ナンマンダブツ
4)寒い一日のお勤めを終えて家に帰り、冷たく冷えた体を熱いお風呂に首までドップリ沈めて思わずナンマンダブツ・ナンマンダブツ
5)夜、雨戸を締めに外に出て夜空に輝く満天の星、冴える月に思わず手を合わせてナンマンダブツ・ナンマンダブツ
6)一日も終わり、我が家の仏壇に向かって正信偈を勤め声高らかにナンマンダブツ・ナンマンダブツ


私は以上6つの私のナンマンダブツをどう考えればよいのでしょうか?法然上人は選択集(せんじゃくしゅう)に
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(なむあみだぶつ おうじょうのごう ねんぶついほん)」と説き、
恵心僧都も「往生の業には称名最も足れり」と説かれ、
親鸞聖人においては歎異抄第二条に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り」と述べられておられます。


私は1から6のお念仏を称えながら思いますことはどれひとつ見ましても同じ心根では無いのではないか。果たしてそれで良いのかと疑問で仕方がありません。称名念仏は「仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)」を常とすべきとは思うのですが凡夫(ぼんぶ)の浅ましさのせいでしょうかなかなか心が定まりません。御同朋の方々はこのようなお悩みをお持ちになられないのでしょうか? 善知識をお願いいたします。とありました。


 私は深く考えさせられる中、真摯に道を求められるあなたの姿勢に頭が下がります。私もあなたと同じ悩みを抱えながらの日々でありますが、法然上人や恵心僧都は浄土往生の行為として念仏を本とする「念仏為本」と説かれましたが親鸞聖人は阿弥陀如来を信ずる信心こそが往生を決定する本であるとする「信心為本」を説かれたのです。ですから念仏は浄土往生が決まったことを阿弥陀如来に感謝申し上げる報恩感謝のお念仏とされるのでありましょう。
あなたはそのことが解りながら心が定まらないことを迷っておいでのようですが、私はあなたのお念仏は習慣性のお念仏もありますが、報恩感謝の悦びのお念仏が感じられ羨ましい限りであります。
その点、私の念仏は如来の五劫(ごこう)という永い永い御修行も親鸞聖人九十年の御苦労も勿体ないことですと人には語りながら、実のところ本能に振り回され住職にありながら世間一般の人と変わらない生活なのです。恥ずかしい限りであります。そして僧侶の生活をしながら人様を苦しめたり、迷惑ばかりをかけている私なのです。そんな自分に気づかされますと自然と念仏がこぼれますが、その念仏はもがきの念仏であり懺悔(さんげ)の念仏なのです。
どんな念仏にしろ阿弥陀如来の本願に出会い念仏申す身にさせていただけたことは有り難いことであり嬉しいことであります。
こんな返信をいたしましたがこんなことを三回忌にお話ししたいと考えているのです。合掌

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