相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『物事の道理を正しく知り 迷いから目覚めれば 不安も恐れもない 安らかな生活が開かれる』(2014年10月 1日)

物事の道理を正しく知り
迷いから目覚めれば
不安も恐れもない
安らかな生活が開かれる


 玄関に正信偈が書かれた衝立があります。裏にはお釈迦様が涅槃(亡くなられる)に入られた時の頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)のお姿の涅槃図が螺鈿によって描かれています。


それをご覧になったあるお方が「この絵はどういう絵ですか?」と問われました。「お釈迦様が涅槃に入られた時のお姿なのですよ」とお答えしますと、「お釈迦様は仏教を開かれた方ですね・・・どんなお方だったのですか?」と問われる。どう説明しようか考えて、こんなことをお話しさせていただきました。


「あなたはご自分が嫌になることはありませんか?」すると、「あまりありません」と答えられる。「暁烏敏と言われる先生が『誉められて嬉しうのぼり、貶されて悲しうしずむ。めでたき我よ』と言われましたが、まさに私もその通りで何か成功すれば自惚れ、失敗すれば落ち込み、誉められれば有頂天になり、貶されれば自信を失って沈んでしまうのです。偉そうなことを言っても他人が見ていなければ何をするか分からない自分だし、何事も自分の都合ばかり考え自己中心の恥ずかしい情けない自分だなぁと思うと自分が嫌になることがあるのですよ」とお話ししましたら、その方も「そう言われると私もそうですね。その上私は時々思うのですが大安とか友引、仏滅とかにとらわれたり、お札なんかにとらわれて科学的に生きようとしているのに矛盾を感じ情けなくなることがあります」と言われました。


 自分の生き方に矛盾を感じたり、嫌気を感ずることは大切なことだと思います。矛盾を感じたり嫌気を感ずるから、人生どう生きるべきか?が問われるのです。


お釈迦様も人生に悩み、苦しみ、その解決のために家庭も財産も権力も何もかも捨てて出家され、6年間の生命を賭しての難行苦行の末、体を痛めるだけが悟りへの道ではないと確信をされて菩提樹の下に静座され「我、悟りを開かねばこの座を立たん」と固く決心をされ内観瞑想に入られ7日目の夜明けについに迷いの闇を破り、真実の智慧を得て一切の衆生を苦しめ、悩ませていたものは「煩悩」の所為であることを明らかにされ、


諸行は無常です=この世に存在する一切のものは因縁により造られたものですから常に流転し変化し続け永久に不変な物はありません。


諸法は無我です=この世に存在するすべてのものはそれ自体で成り立っているというそんな実体はありません。


と説かれ、「金や権力や社会的地位に執着することはつまらないことです。俺が、俺がと自分に愛着することは苦悩を深めるだけです」と注告下されたのです。このことに気付かさせていただきますと、貪りの心、怒りの心、愚痴の心の燃えさかる煩悩の火が吹き消され、正しい智慧をいただき迷いから目覚め、怒りも争いも不安も恐れもない浄らかな静かな心安らぐ涅槃寂静の境地に至ることをお説き下されたのです。


 しかし燃えさかる煩悩を吹き消すことも、どうすることも、いくら努力してもできない私はどうしたら良いのでしょうか。これが大事な問題ですが、お釈迦様はそうした私をけして忘れず、そうした煩悩を捨てきれず、煩悩に振り回され、悩み苦しむ私のために阿弥陀如来の本願をお説き下されたのです。阿弥陀如来の本願に出会い、如来の本願を信じ念仏申す身にさせていただけば、誰しもが必ず間違いなく救われる道をお説き下されたのであります。もったいないことです。有り難いかぎりであります。合掌

最近の記事

月別アーカイブ