相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『よく掃き清められた庭には 落ち葉ひとつ落ちていても気になる』(2014年9月 1日)

よく掃き清められた庭には
落ち葉ひとつ落ちていても気になる


 私は職業上種々なご家庭に伺わせていただくことがあります。いつ伺っても掃除の行き届いたご家庭もあれば、乱雑で掃除なんかしたことが無いようなご家庭もあります。玄関に入るなり分かるものです。私が伺うことが分かっている時は玄関入り口に打ち水を打って迎えて下さる方もおいでになります。気持ちの良いものです。掃除の好きな人、嫌いな人、よく掃除をする人、しない人がいます。あなたはどちらでしょうか?


 人間はその環境に馴染んでしまうようで、汚れて乱雑で足の踏み場も無いような中で生活をしていますとそれが当たり前になってしまうのです。よく掃き清められた部屋には糸くず1本落ちていても気になるものです。皆さんはお寺の小僧さんというと何を連想しますか?

箒を持って境内を掃いている姿。
雑巾を持て長い廊下を拭いている姿。

掃除をされている姿が連想されると思います。こうした姿が浮かんでくるのは掃除をすることは人生の基本だと言うこと、そして掃除が修行の中で大切なことだと分かっているからだと思います。


 尊敬するある老僧が私にこんな話をして下さったことがありました。「寺に住み、寺で生活する者にとって大切なことは掃除に励むことです。お経を読んだり、勉強に励むことも重要ですが、掃除をできない者は寺で生活する資格はありません。休みの日だからと言っても誰でも顔は洗うし、食事もするでしょう。掃除をすることも同じであり毎日しっかり行うことが大切なのです。」とお教えくだされたのです。この老僧のご意見は寺に住むものだけではなく誰にでも当てはまることだと思います。誰しもが家の内外の掃除に励んだら私たちが住んでいる街は気持ちの良い住みやすいきれいな街になるでしょう。


 掃除に励むことは人格の形成においても大事な事なのです。お釈迦様のお弟子には掃除ひとつに励み続けて悟りをひらかれた周梨槃特(しゅりはんどく)という人もおいでになりました。周梨槃特はお釈迦様に「私のような愚か者はお釈迦様のお弟子にしていただく資格がありません」とおっしゃいました。するとお釈迦様は周梨槃特に箒を1本与えこれからは「塵を払い垢を除かん」と言いながら掃除に励むように命じたのです。彼は長い年月、風が吹こうが、雨が降ろうが、何があろうと来る日も来る日も「塵を払い垢を除かん」と言いながら掃除に励み、ついに心に降りかかる煩悩の塵や垢を払いのけて悟りをひらかれたのです。お釈迦様は多くの弟子を前に「周梨槃特を見るが良い。悟りをひらくと言うことは決して多くを学ぶことや、難しい修行をすることだけでは無い。自分は愚であることを自覚して掃除に励むというそのひとつことに徹底すれば悟りをひらくことができるのです。」と周梨槃特を褒め称えられました。


 私たちもいつの間にかたまってしまった煩悩の塵や垢を掃除をして洗い流したいものです。掃除をすることによって身の回りも清らかに、私の心も清らかになれたら嬉しいことであります。合掌

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