相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『自分の尺度でものを見たり 判断してる限り 苦しみ悩みから 離れることはできない』(2014年6月 1日)

自分の尺度でものを見たり 判断してる限り
苦しみ悩みから 離れることはできない


 何故本弘寺は毎月8日を定例法話にされたのですか?とある方に問われました。お釈迦様は2500年前の4月8日にお生まれになられ、35歳の12月8日に悟りをひらかれ仏陀(覚者)となられましたので8日にさせていただいたのです。ちなみに秦野の別院では18日を定例法話にさせていただいていますと応えました。


 お釈迦様が悟りをひらかれたと言うことはどういうことかと申しますと、永遠に変わらない真理(法)に目覚め、すべての衆生が心を煩わし身を悩ませていたものは煩悩と名付けるものであったと明らかにされたことです。それなのに私は煩悩を満たそうと煩悩に振り回された日暮らしをしてなんとも恥ずかしくなさけないことです。


 永遠に変わらない真理とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」であり、この3っつの法を説いているのが仏教であります。ですから仏教とは、仏(覚者)が説かれた教えであり、迷える衆生(凡夫)が迷いから目覚め仏になるための教えであります。凡夫が仏になれるのです。仏教なればこそです。有り難い限りです。


 3っつの法の内「諸法無我」を考えてみたいと思いますが、これは「諸法皆空」とも言いますし「一切皆空」という事でありましょう。この世に存在するすべてのもの、すべての現象はすべて空であると言うことです。「空」とは一切の存在、すべての現象はすべて因と縁によって生ずるものであってそれ自体で成り立つ実体はありませんと教えているのです。


 例えば私が身に付けているこの袈裟は8万円しました。高いと思う人、安いと思う人がいるでしょうが私は高すぎると思います。しかしこの袈裟そのものには高いも安いもないのです。高い、安いと値を付けるのは人間です。判断するのも人間なのです。空(無我)である袈裟を高い安いとこだわることは愚かなことだと教えているのです。何事も私たちは高い安い、強い弱い、偉い愚か、良い悪い等そうしたことにこだわりますが、それは愚かなことなのでしょう。大変難しいことですが、こだわりの心、とらわれる心を離れよ。そうすれば楽になると教えているのが空の思想であり、諸法無我の教えでありましょう。


 人間は何事も無我であるのに「俺我、俺我」と自我にかき回され自分の尺度でしかものを見ることも判断することもできないから迷うのです。苦しむのです。悩むのです。俺我、俺我のこだわりの心はどうしたら少しでも離れることができるのでしょうか?皆様はこの頃大変暖かくなってきましたので真冬のころの厚着からだいぶん薄着になられました。薄着にさせたのは暖かな太陽のはたらきであります。これと同じで俺我、俺我の心を無我の心に変えさせてくださるのは仏のはたらきであります。仏のはたらきに気付かせていただくには仏法聴聞しかないのです。どれだけ頭が良くても自分だけで考えていては気づけないのです。ですから浄土真宗では仏法聴聞を大切に大切にしているのです。一生聞かせていただきましょう。合掌

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