相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『人生で大切なことは 今日をどう生きる? 死んだらどうなる? この二点の解決でしょう』(2014年3月 1日)

人生で大切なことは 今日をどう生きる?
死んだらどうなる? この二点の解決でしょう


 修正会に参詣をされたKさん。善財童子が文殊菩薩の勧めで南へ南へと向かって、沢山の善知識に会って教えを求めて歩かれ、53人目にお目にかかった普賢菩薩から阿弥陀如来が説法をされているお浄土の世界を聞かされ、彼岸の浄土に生まれたいと願うようになられた善財童子の話に大きく頷いておられました。そのKさんから「今、入院をしているので私は行けないが、息子を伺わせますので相談に乗って欲しい」と電話をいただいたのです。それから間もなく息子さんから「父が亡くなりました」と連絡をいただきました。常日頃、仏法には明日は無いと自分に言い聞かせ、人にも話をよくしていましたが大きなショックでありました。


 葬儀を済ませ、初七日の席で32歳の息子さんは「父に仕事の事務のこと経理のことを教えてと頼んだのですが、まだ早いよと言って教えてくれなかった」と言われる。社長のKさん一人がすべてを把握して順調に伸ばしてきた会社なのでこれから大変だと思います。Kさんはよく仏法を聴聞されお念仏も悦んでおられたのでお浄土へ往生されたと思いますが、会社のこと、息子さんのことを心配しての浄土往生だったのではないでしょうか。Kさんのことを種々考えていますと、尊い人間として命を賜った私の人生、何が一番大切なのか考えさせられます。それは"死んだらどうなる""今日をどう生きる"この2点ではないでしょうか。


 死生学が専門で「よく生き、よく笑い、よき死と出会う」ことを人生の生き方として上智大学で教鞭を執られたドイツの哲学者アルフォンス・デーゲン教授が以前こんな話をされました。アメリカの病院でのこと、90歳のお婆さんが危篤になり家族が集まり見守る中、意識が戻られ周りを見回し「あぁ皆来てくれたの」と言われ、「お酒が飲みたい」と言われる。家族が「お酒は駄目よ!」と言うと「死んでいくのは私よ」と言う。用意したお酒をほんの少し口にされ「美味しいね」と言われ、今度は「タバコを吸いたい」と言うので家族がタバコに火を付けて口に当ててやると「美味しいね。ありがとう。先に行って待っているからね」と言った途端スーッと意識が無くなり間もなく息を引き取られたという話をされ、「先に行って待っているからね」と言う言葉はお婆さんは安らかな天国へ行ったのだなと残された者に安心を与えてくださる。また残された家族もいつかまた会える世界があるのだなと味わえるのですとデーゲン先生が話されたのです。いい話ですね。


 私はもうすぐ三回忌を迎える母のことをよく思い出します。母は若いころの話はそれは大変な人生で、涙なくして聞くことはできません。北朝鮮で終戦を迎え、よく日本に帰れたものです。60Kgあった体重が40Kgになってしまったと言いますし。そして北海道の帯広では上司の迫害に遭い、人生万事塞翁が馬でその迫害のお陰で相模原に縁を結ぶことができたのです。しかしここでも後継者として期待した長男を6歳で失い、この悲しみも癒えぬうちに9歳になった娘も失うのです。こうした悲しすぎる厳しい過酷な逆境が母の聞法心を深め念仏の心が深く味わえ、人のこころの痛みを我がことのように思え、人の悩み悲しみ苦しみに真摯に耳を傾けられたのでしょう。その姿が皆から、年上の方からもお母さん、お母さんと慕われたのです。


 その母の最期の姿はそれは見事でありました。子、孫、曾孫、知人等に看取られ、声にはなりませんでしたが恩徳讃を皆と一緒に口ずさみ、私の手に頬を寄せられ静かに安らかに微笑みを浮かべるように亡くなられたのです。私の手に頬を寄せられたのはありがとうの表現であり、後を頼むよの思いであり、一足先に参らせてもらいますとの心であったと思うのです。私の心に、母はお浄土へ還られた・・・聖人や先代と蓮の池のたもとで再会を悦ばれているお姿が目に浮かぶのです。デーゲン先生の語られた90歳のお婆さんや母の姿からしても


死んだらどうなる・・・浄土往生です。それは元気な今しっかりと味わいたいものです。


今日をどう生きる・・・一日一日です。一人一人の出会い、ひとつひとつの出来事、私のできることを精一杯させていただくことでありましょうそこには悦びと感謝の念で満たされると思います。合掌

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