相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『面目を気にすることも大切だが ありのままの姿を自覚することはなお大切です』(2014年2月 1日)

面目を気にすることも大切だが
ありのままの姿を自覚することはなお大切です


 先日ある方に「甥の結婚式に呼ばれ、甥から親戚を代表して挨拶をしてくれと頼まれ気楽に引き受けたのですが、200人くらいのお客があり偉そうな人もいたのですっかり上がってしまって、しどろもどろの挨拶をしてすっかり面目を失った。住職はそういう失敗をすることは無いのでしょうね。」と言われました。
「私も赤恥をかいたことは沢山ありますよ。人前で話しをすることは本当に難しいし、緊張するものですよ。中には立て板に水のように話しをする人もいますが、そうした上手な人の話しよりも緊張しながらの話しの方が味があると思いますよ。あなたは面目を失ったと言われますが人はそうは思っていないと思いますよ。」と話をすると少し気が楽になりましたと言って帰られました。


 その後"面目を失う"と言うことを種々考えさせられました。どんなときに面目を失うのでしょうか。
1つには、自分の力不足や不勉強、手際が悪かったり緊張が高まり体面を無くして面目を失う。
2つには、反対意見の人や異なった信念の人と議論をしてやり込められ傷つけられ、恥をかかされ面目を失う。
そのほかにも種々あると思いますので"面目を失う"という表現も"面目丸つぶれ""面目が立たない""面目無い"等いろいろあるのでしょう。恥をかいたり名誉を傷つけられますと、人はなんとしても面目を挽回したいという気持ちが起こるので今度は"面目を施す""面目を一新する""面目躍如"なんて表現も種々生まれるのでしょう。


 面目も仏教では"めんもく"と発音しますが本来の面目とは私のもともとの姿、ありのままの姿を言うのです。リンゴはリンゴ、柿は柿なのです。鉄は鉄で、金は金なのです。リンゴが柿になりたい。鉄が金になりたいと思うから苦しみ、面目を失うことになるのです。寺の中庭に柚子の木があります。なかなか実が成らなかったのですがやっと実を付けたとき


  桃栗三年 柿八年 柚子の馬鹿めは十八年と言うが
  うちの柚子は大馬鹿で 三十年で実が成った
  そういうおまえは何年かかる


と掲示板に書いたことを思い出しました。なぜ思い出したのかと言いますと柚子の木は成熟する段階でいろいろよそ見をしている内に、リンゴを見てはリンゴを羨ましがり、柿を見ては柿を羨ましがり、桃を見ては桃は良いなとあれこれ思う中に自分が何であったか忘れてしまうのだそうです。そんなとき柚子の枝をもらって来て挿し木をしてやると、あぁ自分は柚子だったと自覚をして実が成るとのことです。


 自覚と言うことが大事。自分の本来の姿に気付くことが大切なのです。「私は寺の住職です」これは自覚ではありません。その時の立場を言っているだけです。私は自己中心の煩悩具足の凡夫でしたと言うことが自覚でしょう。私は議員である。社長である。学者であると執着するから苦しむのです。愚かな恥ずかしい私でしたという自覚が如来の本願に出会う機縁であり、真の喜びの出発点であり、救われる原点であると思います。合掌

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